2009年8月31日月曜日

病に想う

身体がだるく、力が入らない。湿気が多いせいでそう感じるのだろうと、あまり気にも留めなかったが、夕方頃には身体が火照り始め息苦しくなってきた。どうも熱があるようだ。暫くソファーで楽にしていたが、店にいかなければと思いやおら立ち上がろうとしたけれど、不快感を伴う重さを肢体に覚え、そのまま這うように寝床に突っ伏してしまった。身体中、毒気が回ったようで息が荒くなる。寝る体勢を変えてみてもしんどさは変わらない。熱さを感じていたのが悪寒に変わった。妻に毛布を出してくれるように告げ、それに包まり小さくなって体を震わせていた。肉体的なものであれ精神的なものであれ、何某かの責めを負うときこそ、新たな内的霊的ステージへの登竜門に立っている。何とかして逃れたい、楽になりたいと、求める思いに恨みがましい気持ちが含まれている内は、どんなに必死に求めても受け取るものは無い。魂の器には恨みが盛られ、新たに戴き受け取るものが流れ下るとしても、他の感情で盛られた器に新たな汲み取る余裕はない。恨みがましい思いを消化して感情魂が素になったとき、その時魂は受け取る器に変わる。負ったものを凌駕できる新たな魂の力を受け取ることができる。真の父母の心情、天の心情に連結された感情を受け取ると、その柔軟さ故に肉体に執着しきった固形的魂が感化され液体化、更には気体化し、肉体の在り様を左右する生命体に働きかける。鉱物世界に生命体が働くことで植物世界が現れ、植物世界に魂体が働くことで動物世界が現れる。動物界と人間界が異なるのは霊性を持つかどうかに因っている。感情という魂を主管しようとするなら自分は何処から来たものなのかと言う、霊性を見ること無しに魂を操り主管することはできない。感情を野放しにして、その感情のままに肉体が操られるなら、種族から切り離された獣と同じであり獣よりたちが悪い。真の父母に帰依していると言うなら、真の父母から来ている自分であると絶対的確信を備え、歩みの中でその確証を得ながら霊性として揺らがないものを魂の主人に置くものになる。熱が出たくらいで大げさな物言いだが、自分が困難な中にある、苦難の中にあるという自覚があるなら、その時こそ真の父母の霊性を備えることのできる儀式に立たされていると言える。困難を越え苦難を超える新たな魂を受け取る為に、今執着している思いをどうやって解き放てば器としての魂になれるだろうかと問わねばならない。主の名を幾ら唱えても、それは主の名を語る或る執着の思いに他ならないだろう。肉体的苦痛も精神的苦痛も、時が過ぎ去るに任せて癒されるものかも知れない。しかし否応無く迎えるそれらの事柄に対して、どう臨むのか。そこを通過することで何かを学び受け取るものがあると断言して臨む姿勢こそ、能動的人生であり生活としてのみ言に生きる成約聖徒の姿勢だと思う。苦労こそが我々の宝であると言える立場だ。自分の相対者も含めて多くの兄弟姉妹が病の中にある。病を通過してこそ供えるものがあり受け取るものがあると断言し、日毎にその思いは強くなっていることを知っている。

2009年8月28日金曜日

DARK HOLLOW FALLS, SHENANDOAH

樽床ダムの堰止めの横から急な勾配を下って降りきると、三段峡の奥に位置する三つ滝に出くわす。下り坂を折る度に滝の音が強くなり、それに合わせて期待も強くなる。下りは敢えて足を踏み出す必要が無いほどに体は進むけれど、一通り滝を眺め、さあ帰ろうかとなると上り坂が立ちはだかる。戻りの登って行くしんどさに羽交い絞めされながら、溜息交じりに足を進めることになる。バージニアのシェナンドアにある幾つかの滝の一つまで、観光道路の駐車場から往復三キロを散策してみた。下りはいいが戻りの上りに妻は耐えられるだろうかと、田舎の三つ滝の往復を思い出し躊躇したが、自分の田舎にある滝と違い行程はたいそうなだらかそうだ。妻も行って見たいと言うので皆で行って見ることにした。旧盆を過ぎて八月も下旬に入り涼しくなったが、それでも日中の日差しは強い。しかし一旦滝への小道に入ると、風にそよぐ木々の枝葉に遮られて、日差しは弱まり揺らいでいる。木々が程よい間隔を置いてバランスよく立っている地表は、両手を広げたようなシダで表一面が覆われ、視覚を通して侵入してくるシダの鮮やかな黄緑色で自分の内面まで染められる。行き交う人々が息を上げながらも、紅潮させた笑顔で軽い挨拶を送ってくる。散策している皆がその魂を黄緑色に染められ、癒された表情を浮かべている。半時間足を運んでやっと滝が岩を打つ音が耳に届き始めた。この辺りから最後の急勾配に掛かるようだ。滝の落差分をそこから降りていくらしい。二、三度、折れ曲がりながら最後の曲がりを越えるとその滝は目の前に現れた。想像したよりも高い位置から落下しており、一段、二段、三段と石段を越えながらその都度飛沫を上げている。光を受けたそのままに輝く落下している水の帯とは対照的に、苔むした岩肌は飛沫で湿らされ、繊細な輝きを見せている。滝を両側から覆う木々の枝葉で日差しを上手く調整されながら、それぞれの存在それなりの妙味を活き活きと演出していて、いろんな物語を見せられているようだ。岩の凹凸に合わせ、表情を変えて流れ過ぎ去る水流は、静の様相である鉱物世界の動の在り様を見せている。動の在り様でありながら不変の様相を見せている。人間の魂は留まることを知らず揺れ動いているけれど、動の中に不変であり静の在り様を備えてこそ高次の存在足り得る。人生と言う変化そのものの中で不変的なものを抽出しながら捧げることで、不変的神様に歩み寄ることができる。今、目の前の滝の流れは一瞬として留まりはしない。流れ続ける時の中に生きて、流れ去ることの無いものを培うのが、地上で朽ちる肉体の中で生きる人間存在の使命だろう。案の定戻りは大変で、体の弱い母親を娘は引いたり押したりしながら、私が茂みに入って見つけてきた木切れを杖にして何とか休み休み戻ってきた。自分には田舎の三つ滝とシェナンドアのこの滝が不思議と同じ存在に思えるらしく、浮かんでくる思い出の景色がどちらのものなのか解らなくなる。

2009年8月26日水曜日

星を見ながら

バージニア方面に向かう必要が出来た為、家族で出かけて来た。少し遠回りして山道を選んだのはそれなりの理由がある。私が原理講義を通して受けたのは三日修でありその次の七日修であったけれど、どちらも修練会場は廃校の小さな木造校舎で、人気の全く無いお化けでも出そうな所だった。そのような場でみ言を受ける体験がどんなものか、その効果の程を知っていたので、人気も無く、街の光も届かない山の中でこそ、子供達本人が普通はなぞる程度で済ます内的なものを、外的なものから隔離することでより意識するだろうと言う計算があった。下界は暫く悪天候が続いていたが、行く前日辺りから温度も湿度も下がり、久々の晴天だった。山上もそうであって欲しいと祈りながら向かったけれど、山の天気は変わりやすく、日中は太陽が照ったり翳ったりの状態だったが、暮れ行く頃には祈りが届いたのか空一面晴れ渡った。今回、子供達にどうしても体験させたいことがあった。それは下界では見ることができない、星雲までも視認できる程の夜空一面の星を受け取ることだ。夕方九時を超えると一気に闇が広がり始め、半時間も経つと西の空が辛うじて光の余韻を残すのみで、辺り一面は闇に覆われる。闇がその度合いを強める十時頃、小さなロッジを出て空が見通せる広場に繰り出した。皆で空を見上げると正に降ってくるほどの満天の星だ。北斗七星、さそり座、カシオペア座、ギリシャ神話の神々が輪郭を現すほどに五等星、目を凝らせば六等星までも姿を現す。一同感嘆の声と共に首が痛くなるほど天を見続けた。親の私に取っても久々の事だったが子供達にすれば始めての体験で、山頂近くの天に最も近い場所で、風も無い漆黒と静寂の中、数え切れない星々とのみ自分が相対している。受け取るものはそれぞれ違い、悟性的なものであったり感情的なものであったりするけれど、或いはそれが何なのかわからないかも知れないが、明らかに何かを受け取っているはずだ。受け取ったものは内的に息づいている。いつかは解らないとしても遠からず今日受け取ったものを内面から改めて取り出し、受け取った意味を理解するべく内的に消化する時がくる。感受性の深い、スポンジの様な若い魂の今こそ、受け取っておくべきものが沢山ある。星々の光が宇宙の心魂を象徴としていると言った様に、視覚を通して受け取った、瞬く星の宇宙の心魂の象徴を若い魂が食しながら、内面という自我宇宙に大宇宙の心魂を鏤めて影響を及ぼし、自我宇宙の神話を作り出している。そしてその内面様相を地上界の人生として映しだしている。人生路程の中に動かしえぬ血筋から受け取り、決められた清算すべきものを背負っているが、それらを凌駕する大宇宙の心魂的影響を受け取る者もある。それが、或る星の影響下にある者達だ。御父母様のもとに集められた者達は、特別の星の影響下にあることは間違いない。二世としての存在意義は当の本人も一世も解らずにいるが、二世は二世としての、一世とは違う星の影響下にあることも間違いない。星を見上げている子供を見ながら、彼らは彼らで私には解らない言葉で、或る星からのコンタクトを取っているのだと感じた。

2009年8月23日日曜日

謙虚と感謝

内面に築き上げてきたと思われるものが、ある時ガラガラと崩れ去る。その時初めて目が覚める。外的に聳え立つ自己としての誇りの正体が、傲慢であったと言えるように、内的霊的なものに重心を置いて生きるものは、神霊的な判断が出来るものを内面に備えたという奢りが、信仰生活の命取りとなる。自己の内面を可能な限り高めようとする時、かつて無かった自己に舞い上がり、他の内面への関心や配慮、尊敬を忘れてしまう手の込んだ利己主義となりかねない。分派と呼ばれる当事者本人にすれば、ひとつの見極めや悟りを原理の中から抽出したものとして信じて疑わない。事実、霊的な高次元に足を踏み入れ、内的霊的高揚感に溢れて覚醒されたと実感している。しかしながらそれこそが手の込んだ利己主義の存在様相そのものだ。内的霊的利己主義に陥ったと言える。自己の内面を高める仕方を、自己に留まり偏った仕方で為すべきではない。常に人間としての平衡感覚で判断しながら、自己主管する必要がある。ある食物が体にいいと言われたのを妄信して、その食物のみを食べ続けることと似ている。自分の周囲の存在に耳を傾け、自分の内面を高めようとするものが対する相手や事物にあり、また逆に相手や事物を高める為に自分と言う存在が関与していると言う感覚を持つべきで、自分の内面の高まりを、相手や事物の高まりを通して受け取ることが大切だ。周りにいる人物に対しながら、相手の内的欠落を自分の欠落と見るべきでもあり、相手の中にどれだけ尊敬に値するものを見出せるかが、自分の中にもそれに呼応するものがあると言えるし、相手という鏡から受け取るものだ。自分と相手とのそう言った親密な内的関係性が理解されると、感情に於いても相手の喜びが自分の喜びであり、相手の悲しみもまた自分の悲しみであると言うことがわかる。他の至らない点も含めて自分の欠落だと言える感性が本当の謙虚であり、他の達成された性稟を仰ぎながらそれを自分は受け取ることが出来ると言える感性が本当の感謝である。

2009年8月22日土曜日

原理の生活化

原理の生活化と言う言い方をする。生活の中に原理を当てはめる、或いは原理に当てはまる生活を選ぶ、と言う逆の認識で捉えてしまっているけれど、生活は変わらないもの、変えられないものという無意識の認識がどうしても意識下の基底に動かぬものとしてあり、み言が先ずありきでそれが生活様相として展開していく、と言う概念からはかけ離れたものとなる。信仰生活らしきものを何年続けても生活と原理は平行線を辿り、その距離を維持するので精一杯となる。三年経つと地上天国は出来る、と言われたのを鵜呑みにして献身した当時の基準と今の自分の在り様と比べてみた時、あいも変わらず何処かに天国ができるらしく、霊界に行ったら天国に入れるらしいと夢うつつの中で蜃気楼にでも住まうような認識に留まっているなら、自分はこの道にいるべき存在ではない。外的形としては他の食口と同じ生活圏にあるかも知れないが、原理の生活化が為された立場では自分の内面が天国化されるのを外的生活以上に現実として受け取り、そういった者とは辿る道も違えば行き着く目的地も違う。原理が生活化されたものとこの世的生活とは実感度はまるっきり違う。後者が毎日が同じ事の繰り返しの様に思われるのに比べ、前者は一日として同じ日が繰り返されることは無く、み言が目の前で展開される感覚を覚え、み言が繰り広げられる事柄に生きて姿を変え、内的霊的な学びを受け取る。原理が生活化された生活様相が、どれ程色鮮やかであり感情として受け取るものに豊かさや深みがあり、普通は目にも留めない小さな事柄も驚くほどの意味を自分に差出し、感動や感謝を覚える。今すぐに御父母様と同じ生活圏に入ることはできなくても、み言を思考の基、感情の基、行動の基とし内的訓練を積めば、いつか必ず原理の生活化、即ち覚醒的地上生活が訪れる。

魂の成長

肉体を纏うことで地上界に暮らしてはいるけれども、地上界で自分に関わる事柄は感情に反映され、快や不快の在り様の中で暮らしている。地上界に籍を置きながら魂界をわたり、感情の海に揉まれながら生きているということだ。欲という魂様相としてのかたまりを、より強固なものとして固体化させればさせるほど、感情の海に揉まれる度合いは高くなる。泳ぎを学ぶ子供の様に、身体の力を如何に抜くかを学ぶ必要があるが、魂界に於ける感情の海にもそう言った事は当てはまる。しがみ付く欲の力を抜いて魂の個体様相から液体様相、液体様相から気体様相へと魂を昇華せさる為には如何に委ねるかということであり、委ねるとはより高次存在への帰依を言う。個人は家庭の為に家庭は氏族の為に、氏族は民族の為に民族は国家の為、国家は世界の為世界は神の為、家庭の為の自分であると言う意識に目覚め、個人的感情から家庭的感情に移るとき、より高次の存在に帰依していると言え、家庭から氏族、氏族から民族等々にも同じことが当てはまる。個人的感情の海を制する為には家庭的魂への帰依、家庭的感情の海を制するには氏族的魂への帰依が要求される。自分の願望や欲で溢れかえった十代の子供の魂様相が、母を気にかけ父を心配し、兄弟を思い遣る思いが芽生えてくる。そうなることで次第に個人的感情の海を主管できる。家庭問題へ向けられる様々な心労に揉まれる様相を泳ぎきる為には、氏族的意識に目覚め氏族に於ける私の家庭の役割は何か、家庭の問題に呻吟することで何を氏族に提供しているかを問わなければならない。個人に於いて縦的な内的霊的なものと横的な外的肉的なものとが関わって感情生活を為しているように、家庭に於いても縦的なもの横的なものとが関わって家庭的感情生活を送り、それぞれの家庭的気分の中で生きている。個人に於いて縦的なものに御父様を迎えるように、家庭に於いては縦的なものに真の家庭を迎える必要があり、更に氏族に於いては縦的なものに真の父母の氏族圏、祝福家庭の群れを迎えなければ、氏族復帰はなし得ない。家庭という存在感は認めるとしても、食口の中でどれほどの者が自分の中に氏族的意識を確認でき、氏族的気分を覚えながら生きているだろうか。亡くなった祖父や祖母を想い、親族を想い、先祖の解怨を願うのは氏族的気分ではあるけれど、本当の意味で氏族的魂レベルを得た者は真の父母の氏族圏である祝福家庭の兄弟姉妹を、縦的なものとして自分の中に迎え入れているかどうかを問うている。真の父母に侍り、真の子女様を兄として姉として慕い、祝福家庭である兄弟姉妹を思い遣る。養子として何人も自分の子を差し出している家庭は、氏族的魂の縦的なものを供えていると言う事が出来る。個人として生きる術を得ていると満足している者は、波のない魂のプールで泳ぐことが出来ると自慢している様なもので、大海の荒れ狂う波を主管し鎮める程の、高次の魂様相獲得への段階を登りつめる意志を備えてこそ、虎の子は虎の子と言うように、真の父母の息子娘と言う事が出来る。

2009年8月18日火曜日

沈む太陽

一年に春夏秋冬があるように、一日を見ても朝があり昼を超え、夕に入り夜となる。人の一生を見れば、幼年期があり青年期を超え、壮年期を迎えて老年期に入る。卸業務の方で新しいプロジェクトがあり、その立ち上げに顔を出している。ウェアハウスを出たのが夕方八時近かっただろうか、環状線に入り西に進路を取ると、今、正に沈まんとする太陽が目に入ってきた。これ程の大きな太陽を今まで見たことがあるだろうかと思うほど大きな太陽に向かっている。沈む太陽がどうして大きく見えるかを物理的に理解することも出来るのだろうが、それは差ほど意味を成さない。霊的存在としての太陽として捉えることこそ自分に取って意味がある。沈む太陽を内面に受け取るとき、感情として動くものがある。昼の太陽は直視できないけれど沈む太陽はその活動を弱め、暫く眺めていれば太陽存在の中に魂は入っていくことができる。人間は事物に対する時、魂は事物の中に入っている。事物に対していろいろと判断し認識したり、何がしかの感情を受け取ったりするとき、自分は反射体、即ち鏡となっている。意識するとは対する事物の鏡となると言う意味だ。堕落人間はこの鏡が汚れている為、対する事物の本質を受け取ってはいない。屈折されて映されたものを、即ち虚実を実質と思い込んで暮らしている。秋の実りの刈入れを済ませて冬と言う地球自然の内面活動、思考活動を準備するように、宇宙自我としての太陽存在が宇宙の愛としての光を一日放ちながら、自然万物のあらゆる表情を返って来る美として受け取り、それらを誇らしげに地球の自我存在(人間)に差し出している。親が骨身を削って養い育てた子供を誇り自慢するように、太陽存在は惜しげもなく放った光で育てた万物を誇り自慢している。愛する女性を愛の光で包容するように、放った愛としての光が万物の恋心としての表情に代わりそれに酔っている。その太陽感情を独立した自我存在としての自分は受け取らなければならない。受け取って称讃の情を差し出し、共に喜ぶ自分とならなければならない。

2009年8月16日日曜日

み言の領域

堕落人間に取ってみ言に対することは闘いでもある。書に目を通す時、悟性でそれを判断し受け取ろうとするけれど、み言を目で追いながら同じ方法でその意味するところを理解しようとしても、それは本当の意味でみ言の力を受け取ることにはならない。物質的に見ればどんな書物も文字の羅列に違いないが、文字を追う事で書き表されている情景を追いながら書き手の世界観に魂を泳がせている。しかしみ言として御父様の口を通して語られるもの、或いは語られたものを文字表記されたものには、今に至るまで人類が到達できなかった根源の神様の領域から届いたものが言葉となっている。それは自分の悟性を超えた領域にあるため、悟性を超えた領域の高みに昇っていこうとする意志が先ず要求されるかも知れない。地上界から天上界までの精神マップを考えた時、我々が位置する地上界を超えたところに天上界が広がっているのではなく、精神的階層を幾段も超えながら天上界に辿り着く。今の人類は地上界の底に位置している。言い換えれば人間は精神を物質肉体に入り込める究極まで浸透させている。肉的五感はその究極まで発達させて来たけれど、物質を越えるものを見たり聞いたりする力は失せている。かと言って物質を超えた領域を見たり聴いたり出来るなら、即ち霊視霊聴できるならみ言は理解できるかというと、それは在り得ない。み言の領域に入っていくためには特別の精神的ツールが必要とされる。それが心情なのだ。物質的肉体として降りれるとこまで降りてきた人間は、天上界の精神存在とは両極の存在位置にあるけれども、肉体の枷をはめられたが故に逆にどうすることも出来ない想いは強化されてくる。物質人間としての恨を高められると心情という精神様相が現れ、その心情故に極と極はワープされ通じることが出来る。み言を読み解き、その力を得るためには背後にある心情を尋ねることを忘れてはならない。神様御父母様にその御心情を尋ねながらみ言を辿る時、自分が汗と涙で精誠を尽くしたこの身体が共鳴体となって胸が熱くなり、熱い涙が頬を辿る。その時始めて、み言の領域の入り口に辿り着けることができる。み旨を戴き精誠を供えながら、御父母様の歩みのそのひとかけらの苦労を共有することで、我々の次元にまで降りられて心情を分けて下さる。

過去と現在の光の違い

日中は蒸篭で蒸されるような蒸し暑さで、太陽は強く照っているのだろうけれど、湿気で重くなった大気に遮られて目に見える全てのものの輪郭が霞んでいた。夕方近く店の買い物のために車を走らせて向かった時はまだそのようだったけれど、しかし帰りの景色は違っていた。空は高く青く冴え渡り、西日の陽光が地上の全てをはっきりと反射している。道路脇の並木も、ちょうど風がいい塩梅に当たりながら、湿気をはじかせた木々の葉が軽やかにさざめいている。優しい光が木々の葉に戯れながら、暮れ行く中を子供が惜しんで遊ぶように、今日一日の余韻を楽しんでいる。光の印象を受け取りながら、イエス様が地上にもたらした愛をその中に見、真の父母が地上にもたらした真の愛を見ることができる。真の愛の何たるかを知らなくても、真の父母がおられる同じ地上という次元で、真の愛を光として受け取っている。かつての光は今見る光と様相を明らかに異にしていた。或る年の八月六日、小学校の四年生だった自分は、藁葺き屋根に立てかけた梯子に上り、南に向かって黙祷を試みた。二十数万の人々が、自分が目を向けたその先で惨たらしく死んでいった様を思いながら、しかし自分の魂はその現実を包容しきれない。急に吐き気を覚えるような何とも言えない不快感を暫くの間持たざるを得なかったことを今でも思い出す。その時の照りつける太陽がどす黒く、天の青空も青暗く、周りの景色も重暗かったのをしっかりと覚えている。ちょうど一昔前の映画の色合いに見るような重いものを感じていた。その時の光の印象と今のそれとは明らかに違う。今の光の様相がどれ程軽く、優しく、事物に深く浸透しているか、この光に満ちた地上界がどれ程活き活きとしているか、この光に照らされた魂がどれ程明るいか、そう言った観察を通して見ても、真の父母の歴史的、天宙的偉大さを知ることが出来る。

2009年8月14日金曜日

心の垣根を取り払う

人間は共同体の中で、他との関わりを、即ち授受作用をなしながら生きている。人間としてその霊性を高める為に、共同体の中で歩むことは必然と言える。様々な背後を持ち、多種多様な人間像と関わりながら、彼らが携えてくる一人一人特有の霊性から学ぶものがあり、受け取るものがある。目の前に立つ一人の人間を人間的な判断で、それは概して自己中心的な判断であるけれど、結論を出すべきではない。私が学習すべき事柄を持っているが故に、自分に関わりのある全ての人は目の前に立っている。家族は勿論のこと、我々の周囲に関係する人々とどの様に接するか。愛する、為に生きると言うけれど、その言葉が実感として相手との間に育つ為には、先ず関心を持つ必要がある。差ほど関心も持たず、当たらず触らずの状態で、愛する為に生きると言う言葉は空しく響く。自分は誰かに対して恨みや憎しみを抱いたことは無いと言うけれど、多くの場合、愛するとか憎むとかと言う段階までも関係性を持ってはいない。ある意味、み言が関与する段階以前の、自分という枠に閉じこもったままの状態でしかない。自分の枠を外し、土足で内面に入り込まれる状態からが、み言がみ言として自分の中で生きる本当の出発なのだ。親として、自分以上に子供のことを心配し、親の内面で子供のことが多くを占めてそれが内面で生き続けるように、自分の事の様に自分の中で生き続ける一人の人間がいれば、愛さざるを得ないしその人の為に生きざるを得ない。親密な人間共同体意識が芽生えてこそ、自分の中に真の父母からくる真の愛が溢れ出し、内面の壁を突き破って外に流れ出す。喜びの経験や真の愛の体験を自分がするか他人がするかはどちらでもいい。親密な意識が根底に於いて繋がっていれば他の喜びが自分の喜びでもあるように、真の父母が勝利されたことは全人類が勝利した内容として相続できる。

2009年8月13日木曜日

お盆

祖父が亡くなってから彼これ27年が経つ。祖父が亡くなって数ヶ月の後、自分は祝福を受けた。祖父の死と私の祝福は対になっている。その当時は気にも留めなかったが、祖父が亡くなることで自分は祝福を受けることが出来た。今日本は盆の入りで、田舎の裏山の陰にひっそりと佇む粗末な墓にも、派手な三角灯篭が立てられていることだろう。昨年、晩秋に訪れた時には墓に向かう小道が大笹で覆われ、近づくのも儘ならなかったがどうしただろうか。本当なら盆正月ぐらい田舎に帰って、家の世話やら墓の世話をしたいものだが物理的に難しく、足の悪い親父にさせておく以外どうしようもない。そういう親父も喜寿を超える歳になってしまった。献身を決意した時、自分の救いと言うより祖父や親の救いを望み、この道に賭けてきた。当時、全く何も解ってはいなかったけれど、自分の救いがそのまま祖父や親の救いであり、自分が信仰の道を歩むことで先祖や後孫が信仰の道を歩むことになる、そう言った認識はあった。しかしながら親の傍に居て生活の面倒を見たり支えになってあげる訳ではないし、逆に心配をかけ、周りや親からすれば不良息子でしかないのだろう。それでも粋がって親の為にと思っては来たが、ここまで辿り着いて見て本当のところは違うのだと言うことがわかった。み言を学び、真の父母に侍る歩みを自分の力だけで為しているのではない。私は理解しているから当然のようにみ旨を歩んでいるけれど、理解できずに子を心配し、途絶えることの無い内面の患いを抱え続けた親こそ、私が歩むみ旨の土台を支えている。御父様が北韓の収容所に居られた時、母親が差し入れを携え何度も訪問されながら、御父様は母親の目の前でその差し入れを他の者に分けてあげてしまった。母親がそれを見て涙を流し落胆された様子を食口は伝え聞いているけれど、御父様の母親に似たものが自分の親にも当てはまるだろう。それなりに手塩にかけて育てたにも拘らず、外的には親には見向きもせず、様子を知らせるでもなく、ひたすら教会の為に汗を流している。子を案じない親など何処にもいない。自分が本当の意味で立たなければ親は報われることは無い。理解もしていないみ言を確信し、その価値がわかっていないにも関わらず真の父母に侍る事が出来ると言う時点で、自分を超えた多くの働きを自分は得ている。明らかに親があり先祖があり、多くの共助を受けて自分という存在を中心として歩んでいる。私を通して親や先祖がみ旨を歩んでいる。お盆は霊界に居る先祖が尋ねてくる期間であるけれど、み旨を歩む我々には祝福先祖を初めとする先祖達が常に共にあって歩んでいる。我々に取ってお盆は、共に歩んで下さる先祖に、より強い感謝の想いを供える時である。

2009年8月10日月曜日

今日の想い 97

真の父母の御名を我々は唱えることが出来る。どのような環境圏、事情圏の中にあっても真の父母の御名を唱えることが出来るという事が、福の中の福だと言えなければならない。善に通じる言葉があれば、悪に通じる言葉もある。地上に縛り付ける言葉もあれば霊界に通じる言葉もある。しかし、真の父母という言葉はそのまま神界に通じ天国に通じる。真の父母と唱えることによって発生する感情を呼び起こさなければならない。サタンが大きく関与するこの地上界に於いて、魂の中に湧き起こる感情はサタン的気分に支配され、我知らずサタン的気分で地上生を送っている。どっぷりとサタン的気分に浸かりながら、真の父母、と言葉を口に出しても、サタン的気分に掻き消されて天に通じる感情は呼び起こされない。この世的サタン的気分を排しながら、この世的サタン的気分と戦いながら、真の父母の御名を唱えなければならない。誰しもが何らかの気分や感情を持ちながら地上生を送っている訳だけれど、そう言った日常的気分を超えたところに霊的な、或いは神的なものが揺らいでいる。不自然な形で日常的気分を超えようとするなら、それが麻薬であったり黒魔術であったりする訳だが、霊的歪みの中に入り込んでしまう。異常な感覚的歓喜を受け取るけれど肉体や魂がそれを支えきれない。魂が分裂し肉体も破滅に至る。地上的な喜びは感覚的喜びであるけれど、それを突き詰めれば破滅しかない。サタンが人間に持ち込んだものは、感覚世界のみに限定された喜びの不適切な追求であり、本来は違った形で感覚世界に入るべきものを、ルーシェルの誘惑により急ぎすぎた受肉が人類始祖に於いてなされてしまった。だから人間が地上界という感覚世界に対する仕方、在り方が間違っていると言う認識を持ち、それらを一旦否定して(自己否定して)み言から来るところの感情をもって生活することを覚え、習慣化する必要がある。

2009年8月4日火曜日

今日の想い 96

人一倍神経質で感受性の強い子供は、人との関わりの中で起こる僅かの摩擦や軋轢や、自分の感情、相手の感情のどれ程些細なものでも、それらによって心を重くし、内なる身体が削らるほどだった。人にはあって自分に無いもの、人にはできて自分にはできないこと、そう言った事柄に覚える劣等感は凄まじいもので、こんな自分に生まれてしまったことをどれ程恨んだか知れない。自分を極度に矮小化し、極力目立たないように息を潜めて人生を送ることだけを考えながら、み言の出会いまでの日々を過ごした。しかし、み言に触れて、自分が直ぐに180度変わる訳でも、人生が大きく展開する訳でもない。だがその可能性を植付けられた事と、何も起こり得なかった事という、この1と0の違いは宇宙的に見るなら神様が天地創造への意志を持つか持たざるかと言うほどの違いがある。み言を受け入れ信仰生活を始めても、やはり自分に負わされたものは負わされたものとして抱えていかなければならない。大きくうねる感情に翻弄されながらも、しかしそれと平行して信仰として植付けられたものが内面の中で育てられて来たことが、自分でも気付かないほどの僅かずつの成長を重ねてきたことが、過去を振り返って見て取れる。時として不信の思いに揺らぐ中にあっても、忍耐を備えた信仰感情が、新たな本来の自分存在として生き延び成長してきた。血脈を通し、世代世代の肉身に受け継がれ浸透している業を清算すべく、荒れる魂を内的経験として舐めながらも、そういう自分を別の領域から観察し主管し内的糧として、内的霊的成長要素として取り込もうとする第二の自分存在を認識している。日々起こる、様々な事柄に翻弄されながらも、痛みを味わう経験を甘受し、押し寄せ辟易する対処すべき感情体験を感謝し、何度もへたばりながらそれでも立ち上がろうとする意志を備えられたことを喜び、悪なる思いが善なる思いに必ず取って代わると信じる第二の自分が私の中に存在する。第二の自分は真の父母と同じ色合いとして、同じ香りとして、私の中で光を放っている。

2009年8月3日月曜日

宇宙認識

地上世界の物理的認識を宇宙にも当てはめようとするけれど、無理がある。物理的判断は空間内に限り有効であり、宇宙全体が空間内に位置しているとか収まっているとは言えない。天空に輝く星の一群が、空間に浮いているものだと何の疑いもなく受け入れている。自然科学への信頼が外界に対する認識の殆どを占めており、今の自然科学では計り知れない世界の領域の方が圧倒的に人間存在に影響を及ぼすという認識、自然科学は知の領域のほんの僅かであるという認識に欠けている。多神教であった日本の今は、他のどの地域よりも唯物的信仰に捕らわれている。宗教的なものをせせら笑い、自然科学的なもの、唯物的なものを認識の根底に置いて、宗教的なもの、道徳的なものはそれらに付随する程度の認識に過ぎない。それは宗教を否定する唯物論、外的感覚至上主義という唯物信仰、感覚信仰に他ならない。物理的肉体的には空間内に存在していると言えるが、霊的内的には空間を越えた次元で存在している。母の胎の中で地上世界の準備をするように、地上世界という空気の胎の中で、霊界への準備をする。母の胎の中にいつまでも居られないように、地上世界の中で空間的存在として居られるのも限りがある。地上人間の全ては或る期間を超えると空間を脱しなければならない。それが死を迎えるという意味だ。人間は地上生活を生きながら、目に見える視覚認識を超えた、生命的なものを感知できる感性を備え、更に、生命に宿る心魂的なものと授受できる霊性を備えなければならない。全ての万物、大気活動を初めとする全ての地球活動、更に月存在、惑星存在、太陽存在、満天に輝く恒星存在、宇宙存在、そして宇宙活動には物理的な認識では捉えられない、生命的認識、心魂的認識でこそ、宇宙の叡智に参入していく事が出来る。頭上に広がる空の青さは、宇宙の生命を目に映るものとして象徴的に現されており、夜空に輝く星の群れは、目に確認できるものとして宇宙の心魂を象徴的に現されたものである。空の青さから私は何を受け取るだろうと問わなければならないし、星の輝きから私は何を受け取るだろうと問わなければならない。み言に込められた御父様の心情を尋ねていく時、太陽を貫いて宇宙に参入していく自分を体験している。太陽から放射される空間の胎の中で生きながら、霊的存在、心魂存在の外的現れ、象徴的現れを介して学びながら、霊界への孵化(死)に向けて時間を食べている。

2009年8月1日土曜日

神霊的歩み

富を持つ者と持たざる者がある。権力を持つ者と持たざる者がある。富はサタン世界の中に組み込まれている。権力もサタン世界の中に組み込まれている。富を持とうとすればサタン世界の道理に生きる必要があり、権力を持とうとしてもサタン世界の道理に生きなければならない。富を持とうとすればそれ相応の醜い道理の中に頭を突っ込む必要があり、権力を持とうとしてもそのように悪の道理を呑まなければならない。只単に我々は外的実力がないから富を得ることが出来ない、と言う訳でもない。サタン世界の中に富も権力も組み込まれてはいるが、優勢を保ち続けてきたサタンの勢力も、後天開闢の時代が開かれると善の権勢がサタンの勢力に取って変わり、サタン世界は衰えを増すばかりだ。サタン世界の中に組み込まれている富も権力も同様に衰えを増している。生きる糧を得るために、どうしてもコバンザメのように富を持つ者や富を持つ社会に身を寄せる必要は出てくる。必要以上の糧を得ようと欲を出せば、より身を預ける必要性が出てくる。そうなるとサタン世界に媚び、サタン世界に重心を置くようになり、魂までもサタンに売り渡すようになる。このように先天時代は、神様に顔を向けて生きようとすれば、清貧の生活を余儀なくされてきたが、これからは神が主管できる社会に変わっていく。富は濁った汚いものであったのが、清い富、清い富の生活が起こりえる。誰かを蹴落とし欺くことで富を得るということが否定され、人々を愛し為に生き、神の叡智から来る価値創造を地上界に展開することで富を得る時代に入っている。今まではこの世で成功しているビジネス業種の真似事をしてきたが、これからは我々自身が真の愛の文化として真の父母から来るもの、この世からでなく内から抽出されたものこそ富の源泉となる。み言の思考を繰り返す中で結晶化されたビジネス哲学が一人一人の中で、全体として、必ず用意されるはずだ。その途上として私が確信するところの神霊商法も、その一里塚と言えると思う。我々の教会に神霊と謳われている以上、神霊的思考があり、神霊的生活があり、そして神霊的ビジネスもある。