2009年8月16日日曜日

過去と現在の光の違い

日中は蒸篭で蒸されるような蒸し暑さで、太陽は強く照っているのだろうけれど、湿気で重くなった大気に遮られて目に見える全てのものの輪郭が霞んでいた。夕方近く店の買い物のために車を走らせて向かった時はまだそのようだったけれど、しかし帰りの景色は違っていた。空は高く青く冴え渡り、西日の陽光が地上の全てをはっきりと反射している。道路脇の並木も、ちょうど風がいい塩梅に当たりながら、湿気をはじかせた木々の葉が軽やかにさざめいている。優しい光が木々の葉に戯れながら、暮れ行く中を子供が惜しんで遊ぶように、今日一日の余韻を楽しんでいる。光の印象を受け取りながら、イエス様が地上にもたらした愛をその中に見、真の父母が地上にもたらした真の愛を見ることができる。真の愛の何たるかを知らなくても、真の父母がおられる同じ地上という次元で、真の愛を光として受け取っている。かつての光は今見る光と様相を明らかに異にしていた。或る年の八月六日、小学校の四年生だった自分は、藁葺き屋根に立てかけた梯子に上り、南に向かって黙祷を試みた。二十数万の人々が、自分が目を向けたその先で惨たらしく死んでいった様を思いながら、しかし自分の魂はその現実を包容しきれない。急に吐き気を覚えるような何とも言えない不快感を暫くの間持たざるを得なかったことを今でも思い出す。その時の照りつける太陽がどす黒く、天の青空も青暗く、周りの景色も重暗かったのをしっかりと覚えている。ちょうど一昔前の映画の色合いに見るような重いものを感じていた。その時の光の印象と今のそれとは明らかに違う。今の光の様相がどれ程軽く、優しく、事物に深く浸透しているか、この光に満ちた地上界がどれ程活き活きとしているか、この光に照らされた魂がどれ程明るいか、そう言った観察を通して見ても、真の父母の歴史的、天宙的偉大さを知ることが出来る。

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