2009年8月4日火曜日

今日の想い 96

人一倍神経質で感受性の強い子供は、人との関わりの中で起こる僅かの摩擦や軋轢や、自分の感情、相手の感情のどれ程些細なものでも、それらによって心を重くし、内なる身体が削らるほどだった。人にはあって自分に無いもの、人にはできて自分にはできないこと、そう言った事柄に覚える劣等感は凄まじいもので、こんな自分に生まれてしまったことをどれ程恨んだか知れない。自分を極度に矮小化し、極力目立たないように息を潜めて人生を送ることだけを考えながら、み言の出会いまでの日々を過ごした。しかし、み言に触れて、自分が直ぐに180度変わる訳でも、人生が大きく展開する訳でもない。だがその可能性を植付けられた事と、何も起こり得なかった事という、この1と0の違いは宇宙的に見るなら神様が天地創造への意志を持つか持たざるかと言うほどの違いがある。み言を受け入れ信仰生活を始めても、やはり自分に負わされたものは負わされたものとして抱えていかなければならない。大きくうねる感情に翻弄されながらも、しかしそれと平行して信仰として植付けられたものが内面の中で育てられて来たことが、自分でも気付かないほどの僅かずつの成長を重ねてきたことが、過去を振り返って見て取れる。時として不信の思いに揺らぐ中にあっても、忍耐を備えた信仰感情が、新たな本来の自分存在として生き延び成長してきた。血脈を通し、世代世代の肉身に受け継がれ浸透している業を清算すべく、荒れる魂を内的経験として舐めながらも、そういう自分を別の領域から観察し主管し内的糧として、内的霊的成長要素として取り込もうとする第二の自分存在を認識している。日々起こる、様々な事柄に翻弄されながらも、痛みを味わう経験を甘受し、押し寄せ辟易する対処すべき感情体験を感謝し、何度もへたばりながらそれでも立ち上がろうとする意志を備えられたことを喜び、悪なる思いが善なる思いに必ず取って代わると信じる第二の自分が私の中に存在する。第二の自分は真の父母と同じ色合いとして、同じ香りとして、私の中で光を放っている。

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