2009年8月23日日曜日

謙虚と感謝

内面に築き上げてきたと思われるものが、ある時ガラガラと崩れ去る。その時初めて目が覚める。外的に聳え立つ自己としての誇りの正体が、傲慢であったと言えるように、内的霊的なものに重心を置いて生きるものは、神霊的な判断が出来るものを内面に備えたという奢りが、信仰生活の命取りとなる。自己の内面を可能な限り高めようとする時、かつて無かった自己に舞い上がり、他の内面への関心や配慮、尊敬を忘れてしまう手の込んだ利己主義となりかねない。分派と呼ばれる当事者本人にすれば、ひとつの見極めや悟りを原理の中から抽出したものとして信じて疑わない。事実、霊的な高次元に足を踏み入れ、内的霊的高揚感に溢れて覚醒されたと実感している。しかしながらそれこそが手の込んだ利己主義の存在様相そのものだ。内的霊的利己主義に陥ったと言える。自己の内面を高める仕方を、自己に留まり偏った仕方で為すべきではない。常に人間としての平衡感覚で判断しながら、自己主管する必要がある。ある食物が体にいいと言われたのを妄信して、その食物のみを食べ続けることと似ている。自分の周囲の存在に耳を傾け、自分の内面を高めようとするものが対する相手や事物にあり、また逆に相手や事物を高める為に自分と言う存在が関与していると言う感覚を持つべきで、自分の内面の高まりを、相手や事物の高まりを通して受け取ることが大切だ。周りにいる人物に対しながら、相手の内的欠落を自分の欠落と見るべきでもあり、相手の中にどれだけ尊敬に値するものを見出せるかが、自分の中にもそれに呼応するものがあると言えるし、相手という鏡から受け取るものだ。自分と相手とのそう言った親密な内的関係性が理解されると、感情に於いても相手の喜びが自分の喜びであり、相手の悲しみもまた自分の悲しみであると言うことがわかる。他の至らない点も含めて自分の欠落だと言える感性が本当の謙虚であり、他の達成された性稟を仰ぎながらそれを自分は受け取ることが出来ると言える感性が本当の感謝である。

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