2009年8月16日日曜日

み言の領域

堕落人間に取ってみ言に対することは闘いでもある。書に目を通す時、悟性でそれを判断し受け取ろうとするけれど、み言を目で追いながら同じ方法でその意味するところを理解しようとしても、それは本当の意味でみ言の力を受け取ることにはならない。物質的に見ればどんな書物も文字の羅列に違いないが、文字を追う事で書き表されている情景を追いながら書き手の世界観に魂を泳がせている。しかしみ言として御父様の口を通して語られるもの、或いは語られたものを文字表記されたものには、今に至るまで人類が到達できなかった根源の神様の領域から届いたものが言葉となっている。それは自分の悟性を超えた領域にあるため、悟性を超えた領域の高みに昇っていこうとする意志が先ず要求されるかも知れない。地上界から天上界までの精神マップを考えた時、我々が位置する地上界を超えたところに天上界が広がっているのではなく、精神的階層を幾段も超えながら天上界に辿り着く。今の人類は地上界の底に位置している。言い換えれば人間は精神を物質肉体に入り込める究極まで浸透させている。肉的五感はその究極まで発達させて来たけれど、物質を越えるものを見たり聞いたりする力は失せている。かと言って物質を超えた領域を見たり聴いたり出来るなら、即ち霊視霊聴できるならみ言は理解できるかというと、それは在り得ない。み言の領域に入っていくためには特別の精神的ツールが必要とされる。それが心情なのだ。物質的肉体として降りれるとこまで降りてきた人間は、天上界の精神存在とは両極の存在位置にあるけれども、肉体の枷をはめられたが故に逆にどうすることも出来ない想いは強化されてくる。物質人間としての恨を高められると心情という精神様相が現れ、その心情故に極と極はワープされ通じることが出来る。み言を読み解き、その力を得るためには背後にある心情を尋ねることを忘れてはならない。神様御父母様にその御心情を尋ねながらみ言を辿る時、自分が汗と涙で精誠を尽くしたこの身体が共鳴体となって胸が熱くなり、熱い涙が頬を辿る。その時始めて、み言の領域の入り口に辿り着けることができる。み旨を戴き精誠を供えながら、御父母様の歩みのそのひとかけらの苦労を共有することで、我々の次元にまで降りられて心情を分けて下さる。

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