2009年8月31日月曜日
病に想う
身体がだるく、力が入らない。湿気が多いせいでそう感じるのだろうと、あまり気にも留めなかったが、夕方頃には身体が火照り始め息苦しくなってきた。どうも熱があるようだ。暫くソファーで楽にしていたが、店にいかなければと思いやおら立ち上がろうとしたけれど、不快感を伴う重さを肢体に覚え、そのまま這うように寝床に突っ伏してしまった。身体中、毒気が回ったようで息が荒くなる。寝る体勢を変えてみてもしんどさは変わらない。熱さを感じていたのが悪寒に変わった。妻に毛布を出してくれるように告げ、それに包まり小さくなって体を震わせていた。肉体的なものであれ精神的なものであれ、何某かの責めを負うときこそ、新たな内的霊的ステージへの登竜門に立っている。何とかして逃れたい、楽になりたいと、求める思いに恨みがましい気持ちが含まれている内は、どんなに必死に求めても受け取るものは無い。魂の器には恨みが盛られ、新たに戴き受け取るものが流れ下るとしても、他の感情で盛られた器に新たな汲み取る余裕はない。恨みがましい思いを消化して感情魂が素になったとき、その時魂は受け取る器に変わる。負ったものを凌駕できる新たな魂の力を受け取ることができる。真の父母の心情、天の心情に連結された感情を受け取ると、その柔軟さ故に肉体に執着しきった固形的魂が感化され液体化、更には気体化し、肉体の在り様を左右する生命体に働きかける。鉱物世界に生命体が働くことで植物世界が現れ、植物世界に魂体が働くことで動物世界が現れる。動物界と人間界が異なるのは霊性を持つかどうかに因っている。感情という魂を主管しようとするなら自分は何処から来たものなのかと言う、霊性を見ること無しに魂を操り主管することはできない。感情を野放しにして、その感情のままに肉体が操られるなら、種族から切り離された獣と同じであり獣よりたちが悪い。真の父母に帰依していると言うなら、真の父母から来ている自分であると絶対的確信を備え、歩みの中でその確証を得ながら霊性として揺らがないものを魂の主人に置くものになる。熱が出たくらいで大げさな物言いだが、自分が困難な中にある、苦難の中にあるという自覚があるなら、その時こそ真の父母の霊性を備えることのできる儀式に立たされていると言える。困難を越え苦難を超える新たな魂を受け取る為に、今執着している思いをどうやって解き放てば器としての魂になれるだろうかと問わねばならない。主の名を幾ら唱えても、それは主の名を語る或る執着の思いに他ならないだろう。肉体的苦痛も精神的苦痛も、時が過ぎ去るに任せて癒されるものかも知れない。しかし否応無く迎えるそれらの事柄に対して、どう臨むのか。そこを通過することで何かを学び受け取るものがあると断言して臨む姿勢こそ、能動的人生であり生活としてのみ言に生きる成約聖徒の姿勢だと思う。苦労こそが我々の宝であると言える立場だ。自分の相対者も含めて多くの兄弟姉妹が病の中にある。病を通過してこそ供えるものがあり受け取るものがあると断言し、日毎にその思いは強くなっていることを知っている。
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