2009年8月28日金曜日

DARK HOLLOW FALLS, SHENANDOAH

樽床ダムの堰止めの横から急な勾配を下って降りきると、三段峡の奥に位置する三つ滝に出くわす。下り坂を折る度に滝の音が強くなり、それに合わせて期待も強くなる。下りは敢えて足を踏み出す必要が無いほどに体は進むけれど、一通り滝を眺め、さあ帰ろうかとなると上り坂が立ちはだかる。戻りの登って行くしんどさに羽交い絞めされながら、溜息交じりに足を進めることになる。バージニアのシェナンドアにある幾つかの滝の一つまで、観光道路の駐車場から往復三キロを散策してみた。下りはいいが戻りの上りに妻は耐えられるだろうかと、田舎の三つ滝の往復を思い出し躊躇したが、自分の田舎にある滝と違い行程はたいそうなだらかそうだ。妻も行って見たいと言うので皆で行って見ることにした。旧盆を過ぎて八月も下旬に入り涼しくなったが、それでも日中の日差しは強い。しかし一旦滝への小道に入ると、風にそよぐ木々の枝葉に遮られて、日差しは弱まり揺らいでいる。木々が程よい間隔を置いてバランスよく立っている地表は、両手を広げたようなシダで表一面が覆われ、視覚を通して侵入してくるシダの鮮やかな黄緑色で自分の内面まで染められる。行き交う人々が息を上げながらも、紅潮させた笑顔で軽い挨拶を送ってくる。散策している皆がその魂を黄緑色に染められ、癒された表情を浮かべている。半時間足を運んでやっと滝が岩を打つ音が耳に届き始めた。この辺りから最後の急勾配に掛かるようだ。滝の落差分をそこから降りていくらしい。二、三度、折れ曲がりながら最後の曲がりを越えるとその滝は目の前に現れた。想像したよりも高い位置から落下しており、一段、二段、三段と石段を越えながらその都度飛沫を上げている。光を受けたそのままに輝く落下している水の帯とは対照的に、苔むした岩肌は飛沫で湿らされ、繊細な輝きを見せている。滝を両側から覆う木々の枝葉で日差しを上手く調整されながら、それぞれの存在それなりの妙味を活き活きと演出していて、いろんな物語を見せられているようだ。岩の凹凸に合わせ、表情を変えて流れ過ぎ去る水流は、静の様相である鉱物世界の動の在り様を見せている。動の在り様でありながら不変の様相を見せている。人間の魂は留まることを知らず揺れ動いているけれど、動の中に不変であり静の在り様を備えてこそ高次の存在足り得る。人生と言う変化そのものの中で不変的なものを抽出しながら捧げることで、不変的神様に歩み寄ることができる。今、目の前の滝の流れは一瞬として留まりはしない。流れ続ける時の中に生きて、流れ去ることの無いものを培うのが、地上で朽ちる肉体の中で生きる人間存在の使命だろう。案の定戻りは大変で、体の弱い母親を娘は引いたり押したりしながら、私が茂みに入って見つけてきた木切れを杖にして何とか休み休み戻ってきた。自分には田舎の三つ滝とシェナンドアのこの滝が不思議と同じ存在に思えるらしく、浮かんでくる思い出の景色がどちらのものなのか解らなくなる。

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