2009年8月18日火曜日

沈む太陽

一年に春夏秋冬があるように、一日を見ても朝があり昼を超え、夕に入り夜となる。人の一生を見れば、幼年期があり青年期を超え、壮年期を迎えて老年期に入る。卸業務の方で新しいプロジェクトがあり、その立ち上げに顔を出している。ウェアハウスを出たのが夕方八時近かっただろうか、環状線に入り西に進路を取ると、今、正に沈まんとする太陽が目に入ってきた。これ程の大きな太陽を今まで見たことがあるだろうかと思うほど大きな太陽に向かっている。沈む太陽がどうして大きく見えるかを物理的に理解することも出来るのだろうが、それは差ほど意味を成さない。霊的存在としての太陽として捉えることこそ自分に取って意味がある。沈む太陽を内面に受け取るとき、感情として動くものがある。昼の太陽は直視できないけれど沈む太陽はその活動を弱め、暫く眺めていれば太陽存在の中に魂は入っていくことができる。人間は事物に対する時、魂は事物の中に入っている。事物に対していろいろと判断し認識したり、何がしかの感情を受け取ったりするとき、自分は反射体、即ち鏡となっている。意識するとは対する事物の鏡となると言う意味だ。堕落人間はこの鏡が汚れている為、対する事物の本質を受け取ってはいない。屈折されて映されたものを、即ち虚実を実質と思い込んで暮らしている。秋の実りの刈入れを済ませて冬と言う地球自然の内面活動、思考活動を準備するように、宇宙自我としての太陽存在が宇宙の愛としての光を一日放ちながら、自然万物のあらゆる表情を返って来る美として受け取り、それらを誇らしげに地球の自我存在(人間)に差し出している。親が骨身を削って養い育てた子供を誇り自慢するように、太陽存在は惜しげもなく放った光で育てた万物を誇り自慢している。愛する女性を愛の光で包容するように、放った愛としての光が万物の恋心としての表情に代わりそれに酔っている。その太陽感情を独立した自我存在としての自分は受け取らなければならない。受け取って称讃の情を差し出し、共に喜ぶ自分とならなければならない。

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