2013年1月9日水曜日

実体み言

彼らの御父様に対する認識の根本的問題は、「御父様は実体み言であられる」という認識に欠けることだ。過去にも現在も様々な宗教が存在している。そしてそれぞれの宗教の中には真理が含まれている。内的無知である人間が、宗教を通して内的霊的知を探求し無知を克服しながら今日まできたのであり、科学が発達したように宗教も発展してきたのであり、その真理は信じるに値するものだ。御父様が示して下さった新しい真理は、それだけで宗教を凌駕するものがあって、御父様の功績はその意味でも人類史上最大のものであるけれども、しかし御父様の価値は、新しい真理、み言葉を人類に示して下さったこと以上に、御父様御自身が実体み言であられることにある。だから私達にとって決定的に重要なことは、御父様のみ言葉を信じること以上に、御父様の人格(神格と言うべきかも知れない)を信じることにある。聖書ヨハネ伝の冒頭に、「始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とある。言が神様であるなら、御父様という神様の実体を私達はこの目で見、この耳で聞いたのであり、更に神様の実体の願いにこたえ、神様の実体と同じ心情圏を共有した。確かにみ言葉はどのようにでも解釈できるかも知れない。理解度は人によって、あるいは経験によっても異なってくるからだ。しかし実体み言、神様の実体が肉体に宿って地上を生きられたことは、否定できることでもないし解釈によって異なるものではない。見えない神様をこの目で見たのであり、神様の言葉をこの耳を通して聴いた。新しい真理は真理へのアプローチという意味で新しいし、勿論新しい言葉を用いられた部分もあるが、基本み言葉は宗教的、或いはキリスト教的言葉を使われている。私達は御父様を外してみ言葉だけを受け取ろうとする人と、御父様の人格を受け取りその説明としてみ言葉を受け取る人との違いをはっきり理解すべきだ。前者は目新しさはあるとしても偉大な宗教指導者に会っただけであるのに対して、後者は実体み言であられる御父様を受け入れた者だ。相続したレガシーが私の中で生きるのではなくて、見た聞いた通りのみ言実体であられる御父様が私の中で生き、御父様の生き様をその通りに述べ伝える私達になるべきだ。