2013年1月3日木曜日

今日の想い 516

腕や足を切られて奪い取られる者に向かい、寛容であれとは言えない。頬を打たれるのとは訳が違う。ましてや奪っていった者達が奪われる者に対して、信仰者でありながらどうして争い事を好むのかと進言までする。傲慢極まりない態度にあきれかえる。盗人猛々しいとはまさしくこのことだ。確かに教会内にもグループに対して告訴まですることを好ましく思わない者達もいる。しかし歓び勇んで戦う意志を差出す訳ではない。教会の基盤がもぎ取られ売り払われているのに、その痛みを自分の痛みとして少しも感じないのだろうか。全体の痛みを自分の痛みとして感じない者達に限って、戦いの矛先を収めるべきだと言い張る。カインは供え物がとられなかったとき、アベルに矛先を向けた。グループの活動を御父様は認めておられない。認められない愛の減少感から教会に矛先を向ける。矛先を向け、事実腕や足を奪っておきながら如何にも教会側の方から先に牙を剥いたようなポーズを取る。彼らが何をしでかしたかは彼ら自身が一番良く知っているはずだ。しかし前にも言ったように、彼らは確信犯だ。彼らが担ぎ上げる御方が指示するなら、たとえそれが御父様の指示に反することであってもよしとする。御父様は禍根を残されたまま聖和された。御父様がまだ地上におられるのであれば許される道もあったはずが、聖和された以上その道はない。今もし悔い改めたところで、御父様から直接に許しの言葉を戴ける訳ではなく、いつでも帰って来れる道があるだろうとの希望もついに潰えた。成り行き上グループ内に留まらざるを得なかった者達もいただろうが、どんな言い訳をしたとしても、御父様が地上を去られたときにグループに留まっていたというのは、未来永劫彼らの歴史的汚点として刻まれ残るだろう。もはや救いの道がないとなれば彼らは命がけで教会に対して反旗を翻す。本人達は正義感によるものだと信じているが、霊的に見れば追い詰められたサタンの足掻きだ。彼らが良心によるものだ、正義だと信じることが彼らの善悪を決めるのではない。思い込みの背後の霊的部分で既に決められていて、サタンの正体を暴けないまま悪の片棒を担いでいる。彼らは命がけだろうに教会側ののほほんとした茹で蛙状態には溜息がもれる。強いアベルも何も、今はアベルとして戦わざるを得ない状況にある。新年早々過激な物言いになるが、事の重大さを多くの食口はわかっていない。