2013年1月15日火曜日

今日の想い 523

自分の良心に聞いて判断すれば、どちらが正しくどちらが間違っているかは自明の理だ、と言うのが彼らの言い分だが、正しいか間違っているかの判断は私にはなくて御父母様にある。御父様の願われるみ旨については、私はどうすべきかの判断を自分でする位置にはない。さらに自分が良心だと思っているものも、御父様が良心に従えと言われる意味での良心ではない。良心は一方と他方を秤にかけて判断しない。良心は良心の衝動、善の衝動として意志を発動させるのであって、判断する思考が良心に働きかけるのではない。思考を超えて私に働きかけるのが良心だ。だから私は私の判断で教会側についている訳ではない。彼らは執拗に責任者を非難する。それは富裕層を貧しい労働者が非難したのと全く同じ構図で、その意味でも彼らは共産主義者だ。原理用語を口にする共産主義者だ。私腹を肥やしているだとか権力を牛耳っているだとか、それをまともに信じてグループの肩を持つ食口が少なからずいることに腹立たしさを超えて唖然とする。御父様に短くない人生の相当期間を訓練されてきただろうに、その結果がこの有様だ。どんな責任者が立ったとしても彼らは難癖をつけて非難の攻撃を止めないだろう。責任のない位置で無責任に責任ある者を追求する。御父様の平和理想ではなく、堕落人間が描いた御父母様不在の地上的なユートピアを平和理想とし、その幻想を追っかけている。普通の反対派と違って極めて悪質なのは、精誠を合わせて築いてきた御父様の基盤を根こそぎ奪って、彼らの幻想に酔いしれる為の酒や祭りの材料に費やしていることだ。彼らが帰って来る道は既にない。印を押されていない御方を担ぎ上げ、その神輿を高々と掲げて崖っぷちに突進していく。その祭りの後の悲惨な結末は、私にもありありと見えている。彼らは砕け散りながらも、それでも黒魔術にかけられ戯言を言い続けたまま、深い霊的眠りから目覚めない。