2013年1月26日土曜日

今日の想い 526

悔い改めをもって赦しと救いの恩赦に与るのであり、それなくしては恩赦どころか御父様の願いに応え御父様と一つになろうとする自分ではない。私達は悔い改めは間違いを犯したことに対するものだと信じているから、間違いを犯すほどの位置にはないので悔い改める事柄はないと、心のどこかでそう思っている。しかし本当に悔い改めるべきは私の在り様だ。間違いは結果として現れたのであり、その結果に対する原因が私の在り様としてあることを突きとめて、それに対して悔い改めなければならない。現れた結果のみに注目しているので、いつまでたっても原因である自分の在り様については悔い改めず、結果的に負の遺産(レガシー)を延々と積み上げていくことになる。御家庭に対する批判も、教会や責任者に対する批判も、自分は今まで間違いを犯さなかったことを盾に口角泡を飛ばしているが、位置にはなかっただけのことであり位置に着けば途端に間違いを犯すことは目に見えている。霊的背後を見るなら、私の責任はないと思っていた教会や責任者の間違いも、私の在り様を原因としていることがはっきりと認識される。さらに御家庭の問題と把握される事柄は特にそうであり、御母様の位置でその釈明を要求する者がいるがとんでもないことだ。それは霊的自殺行為だ。だから教会や責任者に対しては黙して語らず、ではなく、御父様の願いを中心としてひとつになろうとすれば自分はどうあるべきかを問わなければならない。声を上げることが問題ではなくて、声を上げる者の殆どが傲慢から声を上げていることが問題だ。口を紡いでいることが問題ではなくて、口を紡いでいる者の殆どが卑屈と無関心から黙っていることが問題だ。祝福は戴いたものの、祝福の種から芽を出させ成長させるに十分な心魂の土壌が必要にもかかわらず、あまりにも痩せすぎているか汚染されている。グループに属する者は熱量があるが汚染されている。教会に属する者は汚染は免れているが心魂土壌が痩せて熱量が無い。悔い改めは間違いを犯したことだけでなく、本来はこの私の心魂の在り様に対する悔い改めが必要だ。そこにメスを入れるのは余りにも痛いので無意識的に避けていたが、これからは意識してでも心魂改革が必要になってくる。