2013年1月20日日曜日

今日の想い 524 信じることから意志することへ、、

フランスの哲学者、アランはこう言った。「幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのだ。」と、、。幸福で笑うのは感情であり受動的だ。しかし笑うことで幸福になろうとするのは意志であり能動的だ。意外とこのアランの言葉は、感情だ意志だ、受動だ能動だと能書きを垂れるよりもすんなりと頷ける。もし長い信仰路程で疲れている食口がいるなら、彼の記した本に目を通すのもいいかも知れない。み言葉訓読への深みもきっと増すはずだ。この論式でいくなら、たとえば、「健康だから動くのではない、動くから健康なのだ。」となる。そして勿論、「御父様の心情圏にいるから涙を流すのではない、涙を流すから御父様の心情圏にいる。」だ。この意志する姿勢、能動的姿勢こそが、内外の歩みに於いて前進的発展をもたらすだろう。私達は弱くなり折れかけた翼を修復し、子女として再び、御父母様の願われる霊的高みへの御父母様の心情圏に舞い上がらなければならない。地上的なしがらみの茨に遮られ、内的霊的に締め付けられて身動きできなくなった私を解放しなければならない。伝道、そして氏族復帰。やらねばならぬことはやらねばならぬのですと分かっていても、動けない自分がいる。それは動けないのではなくて動かないのであり、分かっているのではなく分かっていない。更に言えば、分かろうともしていない。百歩譲って、外的な様々な事情が伝道や氏族復帰を遮っているとしよう。教会への悪いイメージや度重なる献金要求もそうかも知れない。しかし本当にそんな外的事情で私が受け取ったみ言の霊的生命力は、み言の影響力は弱ってしまうものだろうか。それよりも先ず御父様が打ち立ててこられた勝利圏、多くの大会行事や宣布式を通して為された勝利とは何か、更に御父様の勝利圏と私との関係性を分かっているのだろうか。分かろうとしているのだろうか。勝利されても地上は何ら変わってはいないし私への影響はないと思ってはいないだろうか。正直に言うと私はどこかでそう思っている自分がいる。その自分が祝福の価値さえも曇らせて見せないようにしている。御父様の勝利圏も祝福の価値も、ただおぼろげにあると思っているだけで、分かってもいないのにどうして伝道したいと思い氏族復帰したいと思えるかと、自分に問うだろう。しかし堕落の自分に問うことを起点にすれば、それはどこまでも堕落的であり否定的だ。幸福だから笑うのではなく笑うから幸福だという、幸福が先か笑うのが先か、感情が先か意志が先かという問いに変えると、笑うという意志が先だとなる。行動に出なければ、即ち意志しなければ御父様の勝利圏に入れないしその意味は分からない。御父様の勝利圏が及ぶから行動するのではない。行動するから御父様の勝利圏が及ぶ。