2013年1月13日日曜日

今日の想い 521

25年前、当時ノースカロライナにいた私のもとに家庭を持つ為妻がやってきた。その頃ミュージカルの移動公演が近くの劇場にきたので、休みの日に合わせて二席の前売りを手に入れ妻と二人で観劇した。レミゼラブルだった。そうして25年経って、ホリデーシーズンに合わせて封切りされた映画、レミゼラブルを二人で見に行った。同じレミゼラブルだが今回はミュージカル映画だ。見ている景色は異なるが流れる懐かしい調べを介して、舞台や若かった妻が隣にいる空間が蘇り、当時と同じ匂いに包まれた。切ないメインテーマ曲が映像と共に流れるのに浸りながら、当時の記憶と今とを往来しながら物語とは別の空間を見渡していた。家庭出発はレミゼラブルの公演を二人で見ることから始まった印象がある。呼び起こされた記憶から芋づるのように繋がる当時の出来事。人気のない長距離バスの停車駅で彼女を待っていたこと。ノースカロライナの田舎町で家庭を出発したこと、小さな店で神経をすり減らしながら営業を重ねたこと、長男の誕生、一年おいて長女の誕生、そして長男の大病。押し付けられるように味わってきた悲喜交々を消化できないまま時を重ねた。それでも蕩減と責任分担の顔を持つそれらの出来事は、悲しみは悲しみなりに、喜びは喜びなりに、歳を経る毎に私の中で実って熟成されて意味を為し、私にその秘密を打ち明けてくれる。記憶に残る出来事の経過や背景は薄れながらも、内的霊的な実りとなって存在感を持って魂の中で広がっていく。歳を重ねるということが、内的霊的実りを刈り入れることだと言うことがこの歳になってわかってくる。基元節を目の前に控えて、私も、家庭も、教会も、世界も、そして宇宙も、新しい出発点に立とうとしている。受け入れられるかどうかに拘わらず、私も家庭も教会も世界も、そして宇宙も、否応なく次元を上げる。善果にしろ悪果にしろ抱えた内的霊的実りを携えて超えていく。出発に際しての準備不足は、今更愚痴ることは辞めてしまおう。いつの時も過去を悔いながらもそれが前進を阻むなら、悔いることさへも悔いることになる。悔いるなら改めるのでなければ、未来に足を踏み出すことはできない。人類誰もが、基元節のその日を超えて、もはや以前に返ることはできない。その日を知ろうが知るまいが、その意味を知ろうが知るまいが、天宙にまたがる全体変革を迎える。霊が大挙して押し寄せ、霊の大洪水、大氾濫となる。摂理を潜り抜け、御父様の訓練を受けた者なら、泳ぎ切ることができるはずだ。