2013年1月21日月曜日

今日の想い 525

私達は、中心者の指揮命令のもとに行動するという訓練を長い期間受けてきた。献身生活は軍隊生活そのものだ。前線主義という言葉に何の疑問も挟まず、弾(たま)を込めての販売前線であり、アンケートを抱えての伝道前線だった。私達は堅固なピラミッド組織の積み石のひとつひとつであり、ピラミッド頂点で指揮命令する中心者を頭脳として戴いて、積み石の全てが規律正しく同じ戦略プロセスを周到する。私達はそれぞれが考えてこの方法がいいと判断した訳ではなく、与えられるそのままのプロセスを疑問を挟まず行動だけすればよかった。一軒残さず飛び込みをかけ、アプローチブックで説明し、契約にこぎつけ、展示会に繋げ、ビデオセンターに繋げ、1DAYに、3DAYに、そして7DAYに、、と言うようにプロセスは決まっている。しかしこの行動要求に応えようとするなら、私の感情は完全に否定されなければならない。それは悪い感情だけではなく良心的、道徳的感情さへも否定される。私達は今尚、万物復帰や伝道というのはこの擦り込まれた行動を指しているという印象から抜け出せない。一軒一軒しらみつぶしに飛び込み、ひとりひとり声をかけて当たっていく、今はそれほどの実績に対する切迫感は薄れているにしても、それでも、その当時の嫌悪感が伝道と万物復帰の言葉を聴けば蘇る。ひょっとしたらトラウマのように苦しめられるのは私だけかもしれないが、御母様が七年路程だ伝道だと言われるのを聞いて、嬉々として喜び受け止める食口はそういないだろう。それはあの厳しい前線主義当時にまた返らないといけないという恐怖感に苛まされるからだ。しかし私達はその擦り込まれた伝道への印象、路程への印象を綺麗に洗い流し、本当にウエルカムな喜ばしい印象を持たなければ出発から躓いてしまうだろう。基元節に聖酒を戴いて過去の罪を洗い清めるなら、私が嫌悪感を持って認識しているみ旨への悪い印象をも綺麗に洗い流すべきだ。本来の伝道は、自分の感情を押し殺し決められた行動に専念するという機械的なものではなくて、伝道対象者と同じ目線に立ち、相手への深い共感からくる自分の感情を溢れさせながら、救いへの道、祝福への道を開いてあげることだろう。基元節の再祝福を受けると同時に生まれ変わって、シガラミのない真っ白な内的世界で天の父母様の心情だけが息衝く、そんな私になるべきだ。魂が傷ついているのはこの世の人たちではなくて食口達だ。教会を去って反対する者やグループに組する者達も含めて食口達が病んでる。それぞれに傷ついて、それぞれに病んでいる。心魂の傷も病も持ち合わせた食口達に、再祝福を与え、基元節を超えさせて、私達はどう変わろうとしているのだろう。父母様はどう用いようとされるのだろう。