2013年2月15日金曜日
概念の次元から霊の次元へ
見たり聞いたり触れたりしながら、感覚を通して受け取るものから事物や事柄を表象し、その表象を様々に関与させながら概念を作り上げる。人間は表象と概念の世界に生きる生きものだ。しかしその表象と概念の世界に留まるのではなく、表象と概念を身体的なものにしていて、その主体としての心的存在の霊がいて、その霊の世界にアンテナを喰い込ませて生きる存在にならなければ、唯物的人間でしかなく、霊性を備えた人間とは言えない。私達はいろんな人と接しながら、見えない人となりや性格、そして心の在り様と相対している。そのように、見えない表象や概念であるけれどもそれらと関与しながら、表象と概念の世界の更に奥にある霊の在り様と相対しなければならない。人の心の在り様の更に奥にある霊の在り様を見届ける者にならなければ、私達がどれほど霊界を信じ霊界の在り様をみ言葉や人の話から考察するとしても、所詮概念世界の大気圏は越えられない。食口に対して唯物主義者だと言えば怒るだろうけれども、私達が霊性を備え霊的世界に関与できる意志を持たない限り、唯物主義者とさして変わりはない。天の父母様を語り、霊界を語る唯物主義者だ。教条主義に陥ってしまえば特にそう言わざるを得ない。私達の中に、これはしてはいけないあれはやってはいけない、タバコはだめだ酒もだめだポルノもだめだ、等の規律が備わっていてそれに従うことが信仰であり御父様の願いだと思い込んでいる。そんな原理的戒律を自分にも当て嵌めると同時に周囲にも当て嵌めて、我知らず断罪している。子女様に対する断罪となると更に度を増す。規律は規律で大切で重要な役割があり、それを捨てろとは言えないが、規律に雁字搦めで歩むのは教条主義者だ。規律は規律という概念であって、概念がうごめく背後にある霊的なものを見る必要がある。規律をもって断罪するけれども規律をもって正しい食口と判断もする。断罪する場合の規律の背後にある霊と、正しい食口だと認める場合に宛がう規律の背後にある霊を、どちらも同じ存在だと思わない方がいい。明らかに異なる霊が関わっている。その場合断罪するのが悪霊で正しいと認めるのが善霊だとは勿論言えない。当然その逆もあり得る。多くの食口は未だに表象と概念の世界に留まったままでいて霊性が開発されていない。み言葉を規律や戒律の次元、即ち概念の世界のみ言葉としてしか受け取れない。霊性は特質ではなくて、歩みの中で御父様とひとつになろうとしながら受け取る心情だ。心情を受け取れば受け取るほど霊性は備わってくる。心情は表象や概念の世界をロケット噴射的に貫通して一気に私を霊界へもたらす。