2013年2月20日水曜日

今日の想い 533

いよいよ基元節を迎える。目は開いていながらも見ることができず、耳も通じているはずなのに聞くこともできず、何処にいて何が起こっているのか、訳のわからないままひたすら御父様の袖を掴んでここまできた。そして御父様は呆気なく聖和されて、掴んでいた袖は急に消え失せた。呆気なくというのは不遜な言い方かも知れないが、御父様にしがみ付くしかないこの身にすればそんな感じだ。途方に暮れて当然だけれども、四方を見渡すと、今、目の前に基元節という門が見えている。支えの袖は霧散してしまったが、その代わりに内的目は基元節の門をとらえている。その門をくぐる為に聖酒を戴き、身も心も洗い清め、食口誰もがまだ見ぬ扉の向こうへと待ち構えている。誰もが開門の号令が鳴り響くのを今か今かと待ち焦がれ聞き耳を立てながら、門が大きく開くと同時に、我先に新しい時空に飛び込んでいくのだろう。新しい時空は、天の父母完全主管の世界だ。新しい世界に入ることで、私達は御父様の勝利圏が時空を越えた天宙的なものであることを実感し思い知るだろう。霊の次元へ意識を泳がせれば、それぞれの心情の啓発度に応じた霊界が見えてくる。機械的な無機質の世界から、あらゆる被造物存在が声を発し、それぞれの存在が霊のひとつの現れとして人間に訴えかける、そんな霊の活動舞台としての世界が現れる。そうなれば私がどういう存在であるかを周囲の環境によって問われることになる。明らかに存在によって裁かれ、存在によって讒訴される。口にする食物が、私が利己的であれば口にしてくれるなと訴え、敢えて口にすれば毒になって讒訴する。逆に私が利他的でありみ旨への意志を差し出していれば、口にして欲しいと頼み込み、私の肉の一部となって健康と力をもたらす。そのように、私が囲い込み、主管しようとする全ての万物が声を発するのを聞くだろう。何もわからないまま歩んできた私達は、今、御父様の心情を備えた、すなわち御父様の分霊を戴いている神霊働く存在として、未だサタン的存在の手に残されたままの人類、その救援活動を基元節を越えたその新しい世界で期待されている。

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