2013年2月16日土曜日

今日の想い 531

御父様は戒律を守ったり、イエス様の教えを守ることに汲々として歩まれた訳ではない。天の父母様の涙を晴らし、願いに応えたいとひたすら決意と覚悟で意志されながら歩まれた。それでは私達はどうだろうか。み言葉の教えを守ることに忠実であろうとするのはもちろん大切だ。けれどもそれは御父様を悲しませたくないという動機からなのか、それとも教えを守らなければ裁かれるという恐れが動機としてあるのかどちらだろう。私達は本当に、100%御父様を悲しませたくないという想いから教えに忠実であろうとするのだろうか。品行方正ではあったが御父様を認めず生きた者と、自堕落でありながらも御父様を受け入れて生きた者とではどちらが天国により近いと言えるだろうか。食口であれば後者を選ぶはずだと思うのだがどうだろう。公金問題もアダムエバ問題も犯さなかったし、そして酒もタバコも勿論やってはいないが、結局何もしなかった者と、いろんな噂もされ実際問題も発覚しながら、しかし御父様の願われる結果は残した者とはどちらを御父様は喜ばれるだろうか。私達は絵に描いたような信仰者像を思い描き、その像を自分にも当て嵌めようとしているけれども、御父様の私達に願われる姿勢はそれとは異質なものではないかと問うてみなければならない。教えを守ることに汲々とするより御父様の願いに応えたい私になるべきだし、願われる実績を供える為に、如何にみ旨への熱を、そして期待に応えたいという衝動を持つかということだろう。私の中に、御父様をかき抱いて嗚咽し、止むに止まれぬみ旨への熱い想いがいくらでも湧きおこり燃え上がる、そんな私でなければ私の人生は御父様と共にあり、御父様の願いに応えた歩みだとは言えないだろう。この意味もない落ち着き、心に波風を立てたくないからという無関心、そして教えを守ることだけに汲々とする委縮、その在り様こそが己がサタン的存在であることの証明だ。