2013年2月5日火曜日

今日の想い 527

人は、安らぎの中に落ち着いてしまうと精神的存在ではなくなる。精進は精神に通じており、私の中に前に進み、高みに昇ろうとする意志がなければ、私は只の飯を喰らって糞をする存在でしかない。それは精神的存在とは言わない。その意志をどうやって備えるかというと、私の心を打ちのめし、痛めつけ、引き裂く事柄の存在によって意志を備えることができる。誰も自分がかわいい。自分を痛めつけたくはない。体の犠牲や奉仕は厭わない者であっても、心の犠牲を供えるとなると誰もが踏みとどまる。心の犠牲は愛する者からの仕打ちであり、裏切りであり、或いは私が愛する者から引き裂かれることでもある。こういった心の犠牲を強いられ、それを敢えて飲み込み、そうしてこそ意志が私の中で芽を出してくる。欲望からの意志は人間的ではあっても精神的ではない。しかし痛みに裏付けられた意志は私という人間を精神的存在への流れに誘う力を持っている。要するに神霊がそこには深くかかわっている。御父様が私達を押し出してきたのは、心の犠牲を供える立場だ。常にその犠牲の場へと私達を押し出してこられた。心の犠牲こそが精誠だ。心の痛みを覚えて、涙を流して、そうして真の愛は流れて来る。どれだけ訓読しても、安らぎの中に落ち着いていては真の愛は流れてはこない。家庭を持つということは安らぎの時間と空間を持つことだ、という認識がある。世間だけでなく食口でもそうだろう。積水ハウスのCMに流れる、あの映像と歌が家庭の安らぎだ。以前はあのCMを見て心躍らせた。しかし今それを見ると心を締め付けられ涙が流れる。それは感動の涙ではなく、余りにも現実は異なるという悲嘆に引き下ろされて流れる涙だ。しかし悲嘆に引き下ろされた位置で何とか安らぎを取り戻そうと足掻くのではなく、それはそれで飲み込みながら、その痛みに裏付けされた意志、足掻きではなく意志を、報いを期待しない新たな意志を吐き出す私になることだ。感情を飲み込んで意志を吐き出す。いつどうなるとも知れない病持ちの妻を抱え、アメリカの自己中心的価値観に毒された子供を抱え、いつ足腰を砕かれるかも知れない店を抱え、グループ問題の煽りを受けて告訴までされ、ついには暫く守られていた体調も急に悪化し始めた。それでも、飲み込むものは全て飲み込んで、一生懸命消化しながら、愚痴をCO2に乗せて吐き出すのではなく意志を吐き出す。それでこそ私は糞をするだけの存在ではなくて精神存在だ。