2013年2月10日日曜日

今日の想い 529

論理思考の強い者は、すべての事柄を霊視、すなわち内的な心の目で見ることを訓練しなければならない。霊的なことが分からないから聖酒を戴く本当の意味も、再祝福に与る本当の意味もわからず、戴いて喜べるような状況にないと、さも謙虚な態度でもあるかのように嘯(うそぶ)いている。霊的に見るということに対して内的な訓練の仕方がわからない者が多い。どうしても外的なものを追いかけてしまって、この感覚世界を見ると同じように、幽霊でも見るかのように訓練してみても何の意味もない。霊的な目が用意される方法は、祈りで力を受け取るのと全く同じ方法だ。深く祈ることで無意識のうちに霊的な目という器官も創造していると言える。人間には記憶という内的機能がある。記憶の引き出しから過去の情景やその時に味わった感情を取り出すことで、過去に私が生きていたことを認識している。しかし或る事柄に関して、感覚で受け取ったものとその記憶とは随分異なることを理解しているだろうか。実は記憶は常に変化している。感覚で受け取るものは一瞬一瞬のコマ送りだけれども、記憶は心魂が見るものだから思考や感情の内的変化と共にその姿を変えていく。思考や感情が生きているように記憶も生きている。自分が犯した罪として認識している或る事柄は、時の流れの中で風化してほしいとは思っても、実際は蕩減法に則って寸分の狂いもなく清算させられる。記憶は生きているからだ。そして風化させようとすればするほど増償法が働く。罪を亡きものとしてそれに対する思考や感情を宛がうまいとすれば、生きている記憶が反乱を起こす。反乱は心の痛み、負債として心魂を病ませる。生きることに人体の細胞数を超える霊が関与しながら生命活動を維持しているし、罪を犯すに際しても関与する全ての霊を総動員している。更に思考する、感情するという心魂活動にも多大な霊が関与している。良くも悪くも私という存在は億兆の霊を率いて指揮命令を出している中心存在だ。霊的影響は私の罪の記憶だけに留まらず、血統にまたがっての無意識圏の記憶もそうであり、始祖の原罪から始まるありとあらゆる罪の記憶が生きて反乱を起こそうとする。サタン主権のこの世はその反乱をねじ伏せていて、個人の平安、世界の平和を繕っているが、天の父母に主権転換されての後天開闢時代はもはやその押さえは効かない。私の罪の記憶の反乱、血統の罪の記憶の反乱、関与する全ての霊の反乱が心魂に押し寄せる。御父母様の犠牲と勝利を引き換えに、聖酒を戴ける大救済、再祝福に与る大恩恵がどれほど感謝であるか。それを戴く状況にないからと否定する者に対しては、御父母様も哀れに思う心情を越えてしまわれ言葉もないだろう。記憶の反乱、霊の大反乱は確実に押し寄せる。それがD-DAYの意味だ。