2013年2月13日水曜日
今日の想い 530
私はどのようにすればマッサラな状態を整えて基元節を迎えることができるだろうか。未だに渦巻いてもいて、くすぶってもいる氏族復帰や伝道というみ旨に対するわだかまりを全部払拭し、その代わりに復帰された当初のように真理と神霊が働く私を備えて出発することができるか。この私の内的在り様が全てを決定する。私にわだかまりがあれば、氏族圏も環境圏もそのような在り様になるだろう。私に信仰が太く強固に立っていれば、やはり氏族圏も環境圏もそれに応対する在り様になるだろう。私が主体であり、私が氏族メシヤだからだ。メシヤという称号が飾りとして伊達に与えてられている訳ではない。御父様が私達に下賜(かし)されたのであれば、人類のメシヤとして歩み勝利された御父様の勝利圏をそのまま相続させて戴いたということだ。しかしその勝利圏は座ってじっとしていて影響を受けるものではない。しかし以前のように訳もわからずわだかまりを抱えたまま、それでも活動すれば勝利圏の影響を受けるというものでもない。御母様が話されるように、私達は環境要件を備える必要がある。それは内的環境であり、内的環境によって備えられる外的環境だ。私達は、今までの歩みを通して、堕落的なものを入り込ませて、み旨に向かわせる意志を挫かせた負の内的要件が積もっている。それを如何に払拭し、願いに応えたい衝動を、復帰への執念を、意気揚々たる活動への気分を、内的環境要件として備えるかということだろう。空元気ならぬ空自信にならないように、責任に押しつぶされるのも問題だが責任の重みを受け止めている自覚がないのもまた問題だ。堕落が起こる前、アダムとエバは無邪気で何の責任感情も持たなかったのだろうか。それとも責任分担を担っている自覚もあり、それに伴う責任感情もありながら、それでも責任を果たせずに堕落していったのだろうか。それは丁度、私に与えられている責任分担、氏族メシヤとしての責任分担があり責任感情もありながら、如何ともしがたい動けない私がいると、摂理の願いに応えられない自分のままでいてしまうのと同じことだろうか。おそらくアダムエバが堕落していった流れと、私が御父母様の願いに対して難しくてできないという流れは同じだろう。私は生活して生きるひとりの人間であるまえに氏族メシヤだと認識し、それは人間の宿命を超える宿命的なものだと理解し、その責任感情を背負い続ける者でなければ願いに応える者にはなれないだろう。