2013年2月5日火曜日

サタン的存在

かつては神側とサタン側、どちらにも中心的な存在がいて、ひとつに括られていてわかりやすかった。やくざ組織のようにサタンを親分とする系列があって、親分の指示のもとに動じ静じていて、親分ルーシェルに交渉し親分の意を得ることでサタン側全体が納得した。兄弟も教会に対していろいろ思うことはあっても、神側サタン側という両極がはっきりしており、神側でなければサタン側だという認識があったので敢えて教会に対して楯つくようなことはなかった。しかしルーシェルが神様の前に悔い改めてサタンの座を降りることで、サタン側は中心的存在を失ってしまい、四分五裂に分散してしまった。その為、今は相反する両極という構造は当て嵌まらない。かつてのルーシェルの重臣達や頭角を現す者達がそれぞれに、神様とひとつになっておられる御父母様に対して反旗を立てている。自分は御父様に従い願いに応えていると言いながら、自己中心的思い込みに毒されて、その実、御母様にも教会にも反旗を立てている者達がいるが、彼らは四分五裂したサタン側の或る存在の主管のもとにある。神様から遠ざかった堕落人間が、その心魂に堕落的影響を受けたが、大きくはルーシェルからだがルーシェルの次に影響を受けたのが後に頭角を現すアーリマンという霊的存在からだ。アーリマンは唯物論の悪魔で、人類を共産主義へ導いたのはこの霊的存在だ。御父様が、共産主義の手からワシントンタイムズを取り戻したと、大会(ニューヨーク)ではっきりと言われたように、彼らは唯物論の悪魔アーリマンに主管されている。サタン的存在は人間それぞれの特質や実力を見抜いていて、その特質や力を発揮させたい人間の衝動を擽(くすぐ)りながら近付いてくる。人間的で人に優しい者には、その優しさを使えますよと誘惑してくるサタン的存在が待ち受けている。特に問題になっているグループの彼らには、その知恵と論理性の実力を褒めて用いるアーリマンがいて、彼らの満足心を満たしている。カリスマ性のある者はそのカリスマ性をして、社会公徳心の強い者はその道徳性をして、それを用いようとするサタン的存在が近付いてくる。私がサタン的存在の片棒を担いだり、その餌食になったりするのを避けようとすれば、もっとも基本である謙虚と感謝を忘れてはならない。思考としての判断であれ、感情としての判断であれ、その判断に至らせた思考や感情は一体どこから来たのかを先ず問うべきだ。謙虚に背後の霊的なものを見ようと努めるのでなければ、サタンが関与する自己中心的思い込みで思考し感情してしまう。神霊、聖霊といった霊的なものは謙虚に尋ねることで届くのであって、これが天の願いだと自分で判断するのとは次元が異なる。肉体をもって地上に歩まれた御父様を私達は知っているので、特に霊的背後を突き詰めなくとも、御父様の願いに応えたいという真実の想いがあれば、謙虚と感謝を意識するまでもなくその道から外れることはないはずだ。