2013年2月28日木曜日

今日の想い 537

「私は体をもっている、体が存在している」と認識するのは心だとしたら、「私に心がある、心が存在している」と認識するのは何が認識するのだろうか。心自身だろうか。心自身が心を認識するのであれば「私は在って或る者」という神様と同じ位置に私の心を置いていることになる。現代人はこの心を私自身としているために、心の奥で心を認識すべき霊としての私、自我がわからない。心自身が心を認識しているという限定的認識が、心魂の深みの次元から心を自由に操り弄ぶ霊的存在に心魂を喰いものにされている。私の心を喰いものにするそのサタン的存在の正体を見届けることができないでいる。人間は本来霊的存在であるけれども、心の奥に存在し心を喰い物にしている霊的存在を見届けることができずに、心魂存在に留まろうとしている。心魂と霊を隔ててしまっている次元の蓋(ふた)が開かれれば、自分を心魂存在だと思っていた認識に穴が開いて、入り込んでくる霊を認めざるを得なくなる。そうなれば自分が心魂存在である以上に霊的存在であることを知るようになり、さらに今までは気付かなかった、自分の罪に汚れた霊の在り様に辟易するようになる。全ての人間が救いの必要を実感するのは次元の蓋、次元の堰が決壊し、霊が流れ込んできて霊の洪水が溢れる時だけれども、食口の霊的なものへの間違った認識も早く修正しないと彼らを救いに導くことができなくなるどころか、祝福を戴いて救われたはずなのに何も救われていないと言いながら食口ですら彷徨うことになる。祝福の権能を与えられながらも埃を被った神棚に置き去りにされていてその価値がわからないでいる。救いが何かもわからずにいながら、救いを説いてどうして彼らを伝道することなどできるだろうかとも思うが、救いがよくわからない位置で伝道もどきを一生懸命しながら、本当は霊界がそのもどきを伝道に変えるのであり、そしてもどきを通して実は自分自身をも伝道している。そのように、天の父母様は、御父様は、善霊界は、行動する者、すなわち意志を差出す者に働かれる。それが私の氏族復帰に対する、人類の復帰に対する責任分担だ。

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