2013年2月25日月曜日

今日の想い 535

同じ人間の姿かたちをしておられたものの、その御方と人類とは全く異なる存在だった。人類はここまで発展成長してきたけれども、罪の血統から出た者には越えることのできない天井があり、さらに発展過程も成長した在り様も神様が願われた本来のものとは全く異質なものだった。私達祝福家庭は人類の血統とは異なる、その御方の罪のない血統に接木されて、自分の根源を産み変えて戴いた。産み変えて戴いたけれども、根源が変わった私であることを認識できず、そのはずだという信仰をもってここまできた。変わった私であることをひたすら信じることで、根源に繋がる心魂の在り様、すなわち神様の心情に繋がる心魂の在り様を育ててきた。その御方、真の御父様は人類とは異なる存在だったけれども、祝福家庭である私達もまた人類とは異なる存在だ。しかし、かと言って真の御父様と全く同じ存在だとも明言できずに、私達は真の御父様と人類の間で揺れ動き、戦っている。そう、私達は揺れ動いているし、戦っている。その表現がもっとも的を得ている私達の在り様だろう。この揺れ動き戦っている私と言う心魂の戦場で、真の御父様が勝利宣布されたと同じ勝利内容を取り込んで戦いを終結させるためには、私は私自身を捨てる必要があるだろう。私への執着を先ず捨て、執着によって物事に対するのではなく、み旨を為すことの為に全ての物事に対する。執着で食べていたものをみ旨の願いとして食べ、執着で取り込んでいたものをみ旨の願いとして取り込む。味わう感情を私的に味わうのではなく、味わうべくして味わう公的な私として味わう。思考にも感情にも執着による意志ではなく、み旨を為す為の意志からくる思考とし感情とする。宗教は条件的私を供える為の私にはめる枷だということができる。もし私がみ旨への意志で、思考も、感情も貫くことができるなら、枷の為の宗教は私には必要がない。

0 件のコメント: