2014年2月11日火曜日

秘儀の入り口に立つ (1)

麻薬が駄目だということも、酒やたばこも駄目だということも納得している。それらは習慣性のものだから遠ざけてしまえばそうそう手がのびて誘惑に駆られることはない。しかし性についてはどうだろうか。男だから男の性については良くわかっているつもりだが、これは習慣性の問題として片づけられるものではない。逆に遠ざければ遠ざけるほど益々切望は濃くなっていくものだ。この男の性(さが)、男の衝動を、どう認識し、どう対処すればいいのか。ひたすら衝動を押し殺すことにどういう意味があるのか。常識人であればそう問うことになる。絶対性は男にとっては半ば人生の喜びを諦めるに等しい、と言えば随分堕落的な言い方だが、性的な関係が禁止される場合、どうしても感覚欲の渇望に晒され続ける。御父様が青春時代よ早く過ぎ去れというのが、若き頃の強い感覚欲を持て余されたことへの叫びなのかどうか、頭を垂れ視線を落として外界の刺激から身を護られたお話からすればおそらくそうなのだろう。横的な愛の遣り取り、性愛の行為はそれ程に刺激の強いものであり、それを否定して絶対性の私を生き、生きた供え物になることが私の男としての、即ち天使長の位置(相対者以外の女性に対しては天使長の立場)にある者としての使命のはずだ。しかし周りを見れば誘惑が多く、美しい存在、甘い蜜の存在が目の前に居て、み言葉を知る私はそれを毒薬だと判断する。み言葉を知る私と感覚を生きる肉体の私がいて常に戦っている。しかしこの衝動の試練、偽りの愛からくる衝動を否定して真の愛による絶対性を立てることに勝利しなければ、戴いた祝福、重生した私であることを否定したことになる。あからさまに言うと生々しいが、男として、家庭を持つまでは夫婦生活への期待感で男の感情を説得することができる。そして家庭を持てば夫婦生活への充足感で癒されるものだけれども、どちらか一方が昇華、或いは感情的または肉体的理由で体を重ねることができなくなった場合、衝動の行き場を失うことになる。本当の戦いはそこから始まると言ってもいい。自己否定というけれども、感覚衝動を否定することは生きるという欲を否定することでもあり、その否定にエネルギーを注ぎ込めばもはや生きた屍、この世で戦い発展していく力など残ってはいない。欲がない食口しかこの道に生き残れないとなれば、要するに発展的要素を持たない群れだと言うことになる。欲を否定し、すなわち発展的要素を否定しながら、一方で実力を要求されるという、何とも矛盾した歩みを要求される訳だけれども、しかし、そこに留まっている限りは統一食口の統一食口たる意味はない。矛盾と不合理がまかり通る歩みだからこそ、一般人では伺い知れない私達食口を霊的内的秘儀に導く何かがあると思わなければならない。

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