2014年2月11日火曜日

秘儀の入り口に立つ (2)

堕落によって神様との関係を絶ってしまった人類は、時代時代に於いてある特別の存在を通して復帰摂理を導かれ、復活に至る道を用意されて来た。それは預言者の存在ということだけれども、彼らは特別の修練、秘密なる儀式で高次の神霊存在に出会い、高次の霊界で見聞したものを地上に届ける役目を果たしていた。それは眠りのような無意識な状態で神霊体験するのではなく、生きて死を体験する、すなわち意識的に死を体験することによって、高次の霊界の事実を地上に届けることができた。彼らは特別の使命を受けた者達であって、生きて地上に戻ることができないリスクを冒して神霊への霊的道筋を開拓することで、一般の者でも接触でき神霊と繋がることができる道を見出して来た。洗礼ヨハネが授けていた洗礼儀式もそのようなものだが、当時の洗礼はクリスチャン達が聖水をかけられて洗礼を受けるというような象徴的な生易しいものではなく、頭を川の中に抑え込まれ、全身をザンブリと沈めて、半仮死状態にして神霊体験をさせるというような、実に荒っぽいものだった。しかしそれでも先進的な復活の業であり、同じ系統の神霊の導きは中心的クリスチャンによって受け継がれ、そして中心的な統一の群れによって祝福式の中に受け継がれている。統一教会の儀式の中で、聖酒式は聖酒を戴くことで重生する儀式であり、家庭を出発する時には三日儀式もあるが、酒を禁じていながらも儀式にそれを使われるのであり、性でもって堕落したものを性でもって復帰するのであり、その儀式がサタンが認め神が認める、御父様が生命を賭した戦いの結果として導き出された血統転換の公式(方程式)という秘儀中の秘儀であり、儀式を通過した祝福家庭は現代の秘儀参入者達だと言うことができる。しかし秘儀がその儀式の瞬間に終わるのではなく、預言者達が生きて死を体験したように、私達は生涯を通して、この世的な感覚的嗜好や喜びを否定しながら、この世的死の道を歩み続ける。それは生涯そのものを秘儀的に送るということだ。しかし寂しく思う否定的感情に留まるだけではなく、その感情を昇華させて神の心情復帰に至るのであり、心情のひとつひとつを復帰する実感こそが私達が天の父母様と共に生きているという本当の現実だ。御父様が言われたように、「相対者の顔が問題ではない、学力が問題ではない、その微妙な姿が問題ではない、神様が住みつける心情の量が如何に立体的になっているか」という、それが問題であって、相対者がこの世的魅力に欠けるとしても、私が高次の神霊存在に出会うその門の鍵を持っているのは、誰でもない与えられた相対者だということは公式だ。しかしそれでも敢えて言う。だからと言って姉妹達は女性としての魅力を磨かないのは怠慢以外の何物でもないだろう。誰に魅力を振りまかなくとも、夫の前では最高の女性としての魅力を差出すべきだ。

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