2014年2月5日水曜日

今日の想い 700

拉致被害にあってきた多くの食口に取って、今回の勝訴は霊的暗雲に大きな穴が開けられ眩しい光が彼らに差し込まれた。と同時に御父母様に対する汚名、教会に対する汚名を払拭する役割も果たしたと言える。それは世間の人々が受ける教会の印象に善なる影響を与えたということもあるけれども、それ以上に食口の持つ印象、特に教会に対する食口の印象、それは犠牲を強いられた、そして棄てられたとさえ思えるような、ドグマ的(独断的)強制犠牲主義の教会だという負の印象をも食口から拭った役割を果たしている。極めて私の個人的感情的意見だけれども、被害のあることを知りながら、何年もの間結果的に無視し続けてきた教会であることは言い訳の仕様がない。それがどういう意図と計らいでそうなったのか、それを今問うても仕方がないのかも知れないが、おそらく教会が注目されることで別の被害が発生することを憂慮して、結果的に無視し続けた、声を大にして信者を護ることを投げ出したと言えるのではないだろうか。それは反社会的であり倫理にも反する教会だと世間に批難されて味わう情けなさ以上に情けない思いが込み上げる。彷徨う人々を救う教会であるのに、拉致までされて、肉体的精神的被害を受けている食口さへ救わず放っておくなら、統一教会のどこに真の愛があるのかと叫ぶ食口が出てきても当然だろう。今回の裁判を起こすことに彼が名乗りを上げて戦わなければ、信者への態度という教会とカルトの違いは何かという食口の認識はどんどん曖昧になる。個人が立ちあがり、教会を保護する形で戦うのは、その彼に対しては畏敬の念で見上げるけれども、戦わなければならないのは本来教会であって、やはり教会に対する失望の念は濃くなる。彼の決意と覚悟は教会の態度を次第に変えていったけれども、教会は本当に今のままでいいのかと心配に思う。霊感商法でやり込められ黙すのではなく、逆に拉致被害の問題があることを叫んで欲しかった。あのオウムの広報担当でさへもあれだけ叫び続けたのに、どうして教会の広報担当は黙して語らずなのか。言葉尻を取られることに汲々とするような、そんな尻の穴の小さい者達ばかりなのか。本当はこんな事を吐き捨てようと思って書き始めたのではなかったが、今まで敢えて拉致裁判の事には触れないようにしようと思ったけれども、結局とうとう悪態をついてしまった。

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