2014年2月20日木曜日

今日の想い 703

御父様に代わって残された地上のみ旨を果たす。そう決意と覚悟を差出す私達でなければならないのに、御聖和された事実があるにも拘わらず相も変わらず何か貰える物は無いか、あれが欲しいこれが欲しいと文字通り既に無い袖を引っ張り続ける。死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ。生きる為に、生活の為に躍起になりながら、そのくせ生きてどうするかが定まっていない。ただ生きること、ただ生活することの為に気を使うのであれば、それは為に生きる精神とはとても言えないだろう。生活することに汲々とし時間の流れの両端に高い塀(へい)を囲んで時間移動だけするという、謂わば川をめがけて突進する豚の群れの一匹の如く、周囲の流れに乗るだけで死に向かっている。なかなか思うようにはならないと、体の不安材料や生活の不安材料ばかりに気を取られているうちに、御父母様を迎える家のはずの私の心は閉ざされ荒(すさ)んでいく。そうなると私の心には、ひたすら存在を否定されたくないと内向きになる自己中心的な魔物が居座るようになる。妻が医療本や健康本を読み漁り、生きることだけに意識を投入するように、私は店の安定だけを視野に置いて意識をそこに投入し続ける。当の本人は自分の状況が見えなくても視点を少しでもずらせば、それがみ旨とずれていることは容易に理解できるのに、居座る魔物が本人の霊的な目を覆って惑わせている。いくら信仰があると自認するにしても、心が肉心に占領されればみ言葉の鞘だけが枯葉のように舞うだけで、鞘の中の本質は心魂の外に追い遣っている。そんな状態で、自分は正しい位置にあるし間違ってはいないという思い込みの迷路に迷い込んだ者は、その歪な信仰観の中に住んだまま宇宙の端に追い遣られてしまう。真の父母という言葉の鞘が問題ではなく、真の父母という核に如何に近付いて行くかが問題だ。死生決断という言葉、死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬという神様王権即位式で強調された言葉。私は死する決意と覚悟なしには一歩だに前進はできない。今日をどれだけ潔く死ぬか。潔く死んで綺麗な祭物になるか。時間の流れに乗ることだけで前進しているような、そんな錯覚からいつ目を覚まそうとするのだろうか。御父様もみ旨も信仰もみんな錯覚の中のことで、御父様に本当は会っていない、み旨に本当は歩んでいない、絶対信仰の領域どころか信仰すらも怪しい、ということになりかねない。

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