2014年2月25日火曜日
今日の想い 705
愛は犠牲的であってこそ真の愛と言うことができるのだろう。真の愛という響きは暖かく、心地よさを覚えるけれども、犠牲的となると過酷であり残酷であり、冷たく孤独な響きがする。愛を与える側が犠牲的であれば、その愛を受け取る側は無条件に屈服せざるを得ない。御父様がそんな真の愛で私達に対して下さったから、受け取った私達は無条件に御父様に侍っていく。無条件に御父様に侍っていこうとするけれども、悲しいかな犠牲的だと言える愛がない。いまだ堕落性を脱げ切れないからだ。受けることにだけ慣れて、与える立場になるという成長を私達の中にどれだけ見ることができるだろうか。打たれ強くなった私達だとは言えるかもしれないが、その位置を越えて、与えることができる、すなわち自らを犠牲にして与える愛を発動できる私達には成長していない。実体的天一国を創建するには何が必要だろうか。知恵だろうか。力だろうか。実力として知恵も力も必要だろうが、地上天国としての天一国は二人が一つになる国であり、それは知恵で一つになるのでもなく力で一つになるのでもない。愛で一つになるからこそ地上天国であり天一国だ。結局は私達が愛の完成者となるべく、与える愛、犠牲的愛を発動できる存在にならなければ、天一国のブループリントはブループリントのままで実体を見ることは無い。身の置き所、安心の場を備えて置いて、与えましょう、愛しましょうと言うのであれば、そこには犠牲的と思えるものは既に排除されている。私達は多くの問題を抱えている。祝福を戴いたのに、理想家庭を標榜してきたのに、やはりこの世の悩みと同じ種類の悩みを抱え、すなわち生きるために悩んで、生きてどうするかを悩んではいない。つくづく自分に嫌気がさすけれども、御父様の心情圏に昇っていけない私を、捨てて見放すことはされない。復帰歴史に見る神様の復帰の執念は、私の復帰に対しても見ることができる。この天と地の狭間で浮き沈みする状態から、私を一刀両断に分別して、生への執着をかなぐり捨て犠牲的な供えを残すならば、私は一気に天高き心情圏に昇りつめる龍になる。あの御父様の揮毫の筆遣いに見る泳ぐ龍の如く、悠然と天に昇っていく龍になる。
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