2014年2月8日土曜日

今日の想い 702

騙され隙をつかれるこの世の中で、疑心暗鬼にならずに世渡りするにはどういう姿勢が必要だろうか。外的に自分を護ろうとすれば、どうしても穿った目で対処すべき状況を見がちだけれども、そうなると内的な構える姿勢が常となって受け取るべきものまで排除しかねない。御父様の書かれた「栄光の冠」には、騙されたとしても信じ、裏切られたとしても許すという姿勢を差出しておられるけれども、ビジネスを営んでいれば、ありとあらゆる勧誘に晒され、四方八方からこうしろああしろと雑多な声が煩く鳴り止まない。殆どの声には耳を塞ぐとしても、中に一つ二つ実に狡猾なものがあって、私の堕落性をうまくついてその隙間から侵入し、私の意志の衝動を促す。後になって落ち着いて見れば、明らかにおかしいと思える自分の行動も、その時には不安や心配が塊となって心の中を占め、それを取り払いたいが為だけに行動している。正しい判断ができない暗黒のド壺にすっかり嵌ってしまう。振り込め詐欺にかかってしまう人の話しを聞きながら、ありえない話だと蔑むように見ていた自分が、その思い込みこそが彼らの狙い目だということが今回よくわかった。正直な話をすると、ものの見事に騙された。これまでのビジネス摂理の流れの中でも、表立っては言えない騙された事案が多くある。その報告を受けられる御父様はそれをどう認識し、どう消化され、どう将来的に繋げていかれたのだろうか。それを失敗事案としてだけ処理されたはずがない。現実は騙されたことになるのだろうが、奪われたことで得ようとされる何らかの霊的事実が必ずあるはずで、それが、これからは気を付けようというような単に痛い授業料として捉えることだとは思わない。しかし私達の次元に於いては、奪われたら十倍にして奪い返すという決意を差し出し、奪われたことで奮起できるなら取り敢えずのバランスは取れたことになる。口惜しい思いだけで終わり、それが自信損失に向かうのであればそれこそサタンにしてやられたりと白旗を上げたことになる。騙された相手がいればこそ騙されたという自覚があるが、相手の見えない騙されて失っているものも少なくないはずだ。実際その相手の見えない(いない?)損失の方が遥かに大きいのではないだろうか。奪われた相手も見えないけれども、奪われたという事実も見えない。だから奪われたという自覚がない。疲れてみ旨に対してやる気が出ないというのは、何らかの原因に拠るエネルギーの枯渇や漏洩だ。ようするにエネルギーを奪われている。それは騙して奪っている見えない存在がいると言えるのだが、霊的無知故にそれを感知できない。本当はそこに意識を向けて自己改革すべきだけれども、堕落的自分を護ろうとするから疑心暗鬼になり、内向きになり、奪われると構えながらも内なるものが奪われている。

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