2014年2月2日日曜日

時間概念

人間は自分に与えられた時間が限られたものであることは自覚しているが、そのリミットがいつかはわからず永遠でもあるかのように生きている。限られてはいるけれども、いつ始まっていつ終わるかを算段しながら時間を主管している訳ではない。そうしてそれらの思考は、時間は留まることなく流れ続けるものであるという観点に立ち、更にこの地上に存在する以上誰もが同じ時間の流れを体験しているという観点に立っている。しかし本当にそうだろうか。地上の存在である以上、過去と現在と未来がどうかを問えるのであり、一瞬にして目の前に存在し始める過去を問えない存在、或いは一瞬にして目の前から存在を消す未来を問えない存在など地上にはあり得ないので、時間が止まるという観念は地上に於いては考えられない。しかし時間の流れとなると地上世界全体的に流れが速くなったり遅くなったり、また個人個人に於いて時間の流れ方が変わっていたりというのは考えられる。「アダムからノアに至る一六〇〇年間に十代を復帰した時代から、四〇〇年間に十代を復帰する時代に移ったので、ノア以後、人間の寿命は、急に短くなったのである。」と原理講論にあるように、この短命は幼年、青年、壮年、老年の途中のどこかでちょん切られた短命ではなく、圧縮された短命だと言えるから、時間の流れが濃密化され早くなったということができる。また若い時の時の流れに比べ、年を取った時の時の流れがどれほど早いかは誰もが実感することであり、そうなると老いも若きも誰もが同じ時間の流れの中にいるとは言えなくなる。更に受け取りたくない感情の時は時間の流れが遅く、楽しい時や嬉しい時はあっという間に時間は流れる実感からしても、時間が同じ流れだとは言えない。そうなると正確な時間を刻む時計は肉体生活の標準ではあっても心魂生活の標準にはなり得ない。肉体生活の時間に心魂生活が縛られればより唯物的な在り様になるだろうし、逆に霊的なものを中心として濃密化した心魂生活が地上で送れるなら心霊的な在り様になる。明日がある、さらにその明日があって途絶えることがないという感覚は、時間概念を正しく受け取っていない堕落的な時間感覚だといえる。本然としての時間概念をより正しく受け取るなら、明日があるかどうかはわからないという感覚が私の中にあり、今日の一日は過去になかったし明日に代えられるものでもないという感覚が私の中にあり、さらに心魂の試練にある時こそ時間は濃密化されて地上時間の何年分ほども多くを得るという感覚がある。御父様が言われる「1秒間で世界(世の中)が変わり、先天と後天が1秒を中心として別れ、習慣性を中心として今日も昨日の時間が延長したものと思っていて、千年万年持続した生が1秒間で変わることに誰も気付かない。」とは、この世の時間感覚では受け取れない、本然の時間概念を得てこそ言える言葉だろう。

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