2014年11月28日金曜日

今日の想い 817

霊界に行くにはこの体を脱がなければ霊界の住人にはなれない。地上で体を持った存在だということは、私という輪郭を持った存在だと言うことができる。しかし私のこの肉的体の輪郭がそのまま心魂の住まう輪郭かというとそうではなく、人によってその輪郭は異なっている。もちろん心魂の輪郭は肉的体ほど固定化していないので肉体の輪郭に束縛されることなく、より自由圏、解放圏となっている。家庭が体となり国が体となっている者もいるし、なかには肉体の輪郭ほどの範囲もない心魂に凝縮されたままで地上生を営んでいる者もいる。一方で肉体があり、別の一方で霊人体がある。自己中心的に生きるということは肉体輪郭に心魂の輪郭を合わせ、国のことも世界のことも、はたまた家庭でさえも自分の事として一向にその喜びも痛みも覚えはしない。快不快は肉体と同じ輪郭内に留め置いて、社会のこと、世界のことに関してはどうだっていいと思っている。霊界に行けば事情は全く反転する。輪郭の内側にいた自分と思っていたものが輪郭の外側になり、外側にあった世界が霊人体内の自分として存在するようになる。自分のものだと羽交い締めしていたものは遠くに奪い去られ、為に生き犠牲を払い外界に投入したものは自分の中に取り込むようになる。霊界の入り口に於けるこの逆転現象は、ちょうど袋を裏返すように、私が外の世界に注ぎ出てしまう感覚を味わう。自尊心の人一倍強い者、執着心の強い者は霊界への誕生という霊的お産が難産になり霊界生活への影響が懸念される。自尊心も神を宿す自分としての本然的な自尊心か、あるいは堕落的なものかによって異なるが、よりアベル的中心的存在から否定され怒られることを清々しく思うのであれば本然に近いと言えるが、否定されることを良しとしない私の自尊心は堕落的なものだ。霊的お産のこの逆転現象はどの基準の公的な心魂を備えたかによって流れだす自分の量は異なる。既に国家的輪郭、世界的輪郭の心魂を備えた者は既に地上で為に生き、犠牲的に生きているので、すなわち公的位置に十分自分を流し出しているので安産となる。世界を包み天宙を包み、神様をも包み込む心魂の大きさを持たれる御父様の御聖和は、全く新しい天宙を創りだされるという意味を持つ。大人物を巨星という言い方をするように、事実死んで霊界へ誕生することで一つの恒星が宇宙表象として現出するけれども、御父様の御聖和は一つの恒星というような小さな存在ではなく、新しい天宙として現出する。

2014年11月25日火曜日

今日の想い 816

御父様が聖和された外的経緯であれば食口の誰もが知っているだろう。しかしそれはあくまで外的経緯であって、御父様がどのような内的な心的経緯、さらに霊的経緯を辿られたかはそれぞれが祈り尋ねなければ見えてくるものではない。外的経緯を自分に当て嵌めることで、苦しかっただろう、寂しかっただろう、口惜しかっただろうとその感情を思い起こしはするが、それがそのまま御父様の内的経緯であるはずがない。その想像に悪意はないとしても悪意なきこじ付けの可能性は十分あり得る。御聖和に対する自分勝手な思い込みを大上段に構えて、御聖和の経緯に関わった人々を指弾し切ろうとするのは最も避けるべきことだろう。イエス様を槍で突き刺したローマ兵士でさえその責めを受けなかったのは、聖徒達が己の罪故に犠牲になられたことを知っているからだ。距離を置いた位置からは誰にでもどうにでも罪を押し付け、囃し立てることはできるが、果たしてそれが救って戴いた御父様を想う態度と言えるだろうか。もちろん人それぞれにそれぞれの感情があり、愛する御父様に対するそれぞれの感情を否定するものではないとしても、しかしそれは自分の中に留めるべきであって、誰もが全く同じ感情を持っているはずだ、あるいは持つべきだと思うのは違っている。イエス様が磔刑を受け入れることを決意された時どのような内的経緯を辿られたかは、イエス様のみ旨を受け継がれた御父様によって2000年を経て初めて示されたのであり、イエス様の犠牲は自分の罪故であることを知り、犠牲を決意した弟子でさえ、イエス様の心の内の本質的な経緯を知ることは無かった。ましてや決意と覚悟の足りない私達のどれだけが御父様の御聖和への決意と覚悟を知り得ているだろうか。悲しい申し訳ないという感情は感情で否定されるものではないにしても、その感情が恰も全てであるように取り扱うべきではないだろう。御父様は逝かれるその時をこの世の事情に任せざるを得なかったのだろうか。結局は御父様ですら肉体の事情はどうすることもできなかったのだろうか。天宙の勝利権を立てられ、天宙を主管される御父様も、死を主管されることはなかったのだろうか。しかし私にはその経緯を御父様は敢えて選ばれたとしか思えない。イエス様は人の手によって地上生を終えられた。御父様は病によって地上生を終えられた。イエス様は逃げれば逃げることもできたはずだが、敢えて盃を飲む決意をされた。では御父様も同じように、病から逃れようと思えば逃れることもできたとは言えないだろうか。しかし敢えて進み出て病に身を差し出されることで、肉体の犠牲を供えられた。地上的外的なことを中心として把握する者にとっては、病は誰であっても病であり、それは御父様とて変わりなくやはり病だと思っているが、蕩減的に病を受けて病に侵された者と、病を訪ねて能動的に病に足を踏み入れた者では、病の意味が全く異なってくる。御父様はイエス様が奇跡に頼ったことに対して言及しておられる。御自身は奇跡に頼らないことも言及しておられる。そうなると御父様は敢えて病に身を差し出されたとしか言えなくなる。祝福家庭が世界的祭物であるということと、食口達の癌の羅患率は非常に高いということとは関係性があるはずだ。そして発症を起こさせる見えない肉体の世界、ミクロの世界と肉体創造の根源となる原初世界とは繋がりがある。御父様が南米の奥地に行かれて精誠を供えられたのは根源世界、原初世界を復帰し主管される為であったが、人間界の平和は既に道筋は立っているけれども、万物界を根源から愛で主管する道筋を見出せない限り、病は神様の創造理想を阻むものとなってしまうだろう。よってイエス様は肉体を人間に差し出されたけれども、御父様は肉体を万物の根源存在に差し出された、という言い方はできるだろうか。残る細胞の一つまでも為に生きる生を差し出された壮絶な最期であられたという感慨は、後に病が解決されるときの未来の私達の感情となるはずだ。

2014年11月22日土曜日

今日の想い 815 (火風水土)

風が好き勝手に地上を通り抜けているようだけれども、風は大地を撫でている。空気である風が土である大地を撫でている。大地を撫でて大地の生命を呼び起こしている。私が風になる時がある。夫として妻を慰労する時、私は風になる。風となって妻という大地を撫でる。この手で表面的に撫でることもそうだけれども、心の手で内面的にも撫でる。優しく撫でることばかりが夫婦としての陰陽の関係ではなく、時として台風の如く荒々しくも刺激する。夫婦の一体圏は刺激することで離れるのではなく、さらにその一体圏を強めていく。そして関係性の中に霊的生命を呼び起こす。堕落的な夫婦は外的な関係のみを育もうとし、内的な関係による霊的一体圏には至らない。霊的一体圏に向かおうとしない夫婦は離れざるを得ない。真の夫婦が霊的一体圏にあれば、夫には神霊が共にあり、妻には聖霊が共にある。神霊の柱が神風を巻き起こし聖霊の聖地を撫でて泉が溢れ霊的生命を創造する。地上にも通じ、霊界にも通じ、天宙に通じる元素がある。それが火であり、空気であり、水であり、そして土だ。原理的にいうと火は心情で言い表され、空気は愛であり、水は生命、そして土は基台だ。四位基台と言ってもいい。霊界の霊的太陽は神様の心情であり、霊的空気は真の愛であり、霊的水は霊的生命であり、そして霊的土は四大心情圏としての東西南北だ。地上に実体み言の御父様が立たれ、聖霊実体の御母様が立たれて、霊肉に於ける天宙的四位基台という勝利圏を立てられた。食口は真の父母という言葉を随分簡単に口にするけれども、口にすることさえも畏れ多いという認識に欠けている。本当は真の父母を口にすれば、口にするだけの条件内容が本人にあるかどうかをサタンは凝視している。気安く条件もないのに口にするだけで讒訴条件になり得る。だから口にするなと言うのではなく、主の名をみだりに唱えるなと言われた如くに、そこには覚悟と決意が込められなければならない。天地創造のそれぞれの次元、それぞれの段階で、火として、空気として、水として、そして土として言い表せる元素が働いていた。そして創造理想の目的の頂点に真の父母の完成がある。火としての神様の心情の勝利実体であられ、空気としての真の愛の勝利実体であられ、水としての真の生命の勝利実体であられ、土としての四大心情圏、三大王権の勝利実体であられる真の父母一体圏こそが完成完結完了だ。御父様が風となって御母様と一体である大地を撫でておられる。今や昔の大地ではなく御母様の体としての大地だ。ガイアと呼ばれた地球生命体が霊的生命を得て生まれ変わっている。この地上からサタンを完全に締め出し、堕落の血統圏にある全ての存在はその居場所を失うようになる。

2014年11月20日木曜日

今日の想い 814 (御母様編纂による天聖経)

み言葉がどれほど難しいかは、読み進めれば読み進めるほど迷宮に迷い込むが如くだ。御父様は八大教本教材として残して下さったけれども、全てを読破するのさえも難しく、さらにみ言葉の本質を受け取るとなると至難の業だと言える。私達の認識として、み言葉の全体全ては未だ知らないとしても、骨格である原理を中心として或る程度の肉付けは出来ているのではないかと思っているけれども、果たしてそうだろうか。何年も何年もみ言葉を読み進め、積み上げて構築したみ言葉の全体だと思えるものが、押し付けられた現実に晒されることで私の内面に構築したそれが崩れ去る、という事態を私は経験している。肉付けされながら理想イメージとして捉えていたものが容赦なく崩れ去っていく。二世に対するイメージもそうだろう。教会の未来的なイメージもそうだろう。さらに御家庭に対するイメージすらも崩れて行く。もちろん自分自身の、歩めども歩めども発展的なものを見出せない実情もそうだろう。私がみ言葉の本質を受け取れずに、しかしみ言葉を捨てることもできず、一体となれないみ言葉と私の現実というこの狭間で、妥協的暫定的な中間域で踏み止まっているのが私達の霊的実状ではないだろうか。み言葉はいつのまにか既存の内的生活を支える補助的なものとなり、み言葉で産み変えられた新しい私が先ずあって、そこから繰り広げられる新たな内的生活とはなっていない。生活があってみ言葉で支えるのではなく、み言葉があってそれによって新しい生活を構築していくはずだ。ある食口が、聖霊のみ言葉が現れるという啓示を受けて、受けた本人がそれが自分だと思い込まされたか思い込んだか、そんな分派があるが、聖霊のみ言葉が現れるという啓示自体は意外と本質を突いていると私には思われた。そしてそれはその分派が言い張るところのものではなく、御母様によって編纂された天聖経に違いないと瞬時に思わされた。心霊が未だ暗く、み言葉を論理的頭でのみ理解しようとする私達は、み言葉をどれほど箇条書き的に積み重ねても限界があって本質を受け取れず、よって観念的にならざるを得ない。しかし御母様が編纂して下さった天聖経は、私達がみ言葉の本質を受け取り易いように実に整理されていて、み言葉全体を私の中に構築できる。箇条書き的であったみ言葉が有機的連携を為して生きて働く。未だ私が主管する訓読は未熟である為に、その確信を持って呈示するには至らないけれども、しかしその予感は外れてはいないはずだ。黒表紙が夜の神様のみ言葉、赤表紙が昼の神様のみ言葉、こう表現するとまた遣り込められるだろうか。

2014年11月17日月曜日

今日の想い 813

魚は水がなければ死んでしまう。しかし水にも淡水もあれば海水もあり、清い水もあれば濁った水もある。魚も種族によって水を選び、種族が生き延びることができる水の場所を棲家にしている。人間の肉体も空気がなくなれば途端に死んでしまう。一方で霊的存在としての人間は、様々な霊的環境の中を棲家としている。淡水的な霊的環境もあればより海水的な霊的環境もあり、清い霊的環境もあれば濁った霊的環境もある。天から落とされた一滴の水は、支流から段々と集約されながら本流に合流して行き、やがて汽水域を通過して海水に合流する。私という一滴の霊は、家庭環境からその範囲を次第に広げながら経験して成長していくけれども、最終的には死の前後という天宙的汽水域を通過して霊界という大海原に帰っていく。霊的環境としては無神論という神はいないという信仰も含めて、どういう信仰を持つかが自分の霊的環境を大きく決めている。様々な国があり宗教宗派があり、さらに個人それぞれで信念も異なっていて、地上生という淡水的霊的環境ではあるけれどもしかし異なる環境にある。結局は霊界という大海原に突入しなければ自分の信念信仰が受け入れられるものなのかどうかはわからないと思っているし、だから不安でもあるけれども、内面に霊的羅針盤である良心を誰も持っており、磨いて機能させることで霊的に生きる存在になり信仰の中心に信念を持つ。統一食口は統一食口で同じ霊的環境圏に住んではいたが、地獄の壁が撤廃されあらゆる霊的壁も撤廃されたが為に、その環境圏に固執することはできなくなった。それは摂理的でもあって、より開放的でありいろんな他の霊的環境を刺激できる新たな霊的環境圏を用意しなければならないということだ。要するに後天時代に相応しい新しい革袋を用意する必要がある。教会に対して批判態度を取る者達は、追われた環境圏への執着と追われたことへの恨みから、しかしそれでも何らかの形で教会因縁を結ばなければ存在を否定される為に批判に向かってしまう。ひたすら批判できる餌を目を皿のようにして探し回っている。しかしこちらが対応しなければ餌が餌にならないし、教会側がもし他の食口への影響を心配してのことなら、批判に晒され批難を受けることで内的霊的な成長が促されるのであって、変に手をかける必要は無い。泥沼の中から純白の蓮の花は咲くのであり、この混沌の中から真の祝福家庭、真の統一食口となるべくサナギを脱いでいく。魚の話に戻るなら汽水域を越えて自由に淡水海水を行き来する鮭になる。

2014年11月16日日曜日

今日の想い 812

天聖経の赤表紙がどうの黒表紙の書き換えだのとうるさいが、吠えて噛みつくほどみ言葉に精通している訳ではないだろう。み言葉の一部分の言及を取り上げて、おかしいだとか改竄だとか審判を下しているが、様々な摂理を経てきて、その摂理摂理で中心的み言葉を語られたのであり、どんなみ言葉もその背景を考慮に入れなければ、言葉尻だけ取ることでいくらでもこじつける材料になってしまう。御父母様の心情圏に入らずともその心情に少しでも触れた者であれば改竄などという物言いなど出来るはずがないし、大体そんな指弾追求をすることで御父母様一体圏を蔑ろにはできても、一体であられる御父母様を仰ぎ見ることには到底ならない。おそらく御父様と御母様は一体圏にはないと思っているのでなければ、あからさまな批難の言葉を口にし、記すことなど到底できないはずだがどうだろう。彼らの批難は、多くの批難がそうであるように、御母様への不信から、もしその言葉に引っかかるのであれば御母様がいいように利用されている(それも含めて不信だと私は思うのだが、、)という思い込みから来ている。信仰を超えて御父母様を慕い侍る食口であれば、そんな早急な思い込みも決め付けもせず、先ず自分が理解していない部分があるはずだという謙虚な位置で、問い尋ねてみる祈りから出発するはずだ。み言葉改竄をどうのこうの言うのであれば、新しく編纂された天聖経を訓読することで重大な内的霊的混乱が生じたという者が本当にいるのであれば御母様の前に進み出て申し出ればいい。八大教材教本どころか、天聖経もまともに読破もしていない者が、改竄呼ばわりする神経が私にはわからない。み言葉の本質を受け取らずに鞘だけを受け取って霊的なことが何一つわかっていないという山羊族は、日本に住もうが韓国やアメリカに住もうが変わらず山羊族だ。羊が自己中心的に山に登って山羊になったが、偉そうに高みから見下ろす物言いは山羊そのものだ。膨大な御父様のみ言葉を訓読するには時間もないし理解度も欠ける私達を思われて、編纂して下さったのは御母様の食口を思う愛以外のなにものでもない。霊的無知である私達を不憫に思われて、訓読し理解しやすいように編纂して下さった。感謝こそすれ、自らの霊的位相も顧みない者達の物言いに対しては無視するのが一番いい。食物を噛み砕いて口に運んでやる親のように、敢えてそんな甘えを助長させるように、編纂された天聖経を説明してやる必要など全くない。かまえばかまうほど噛みついてくるのはわかりきっている。

2014年11月15日土曜日

今日の想い 811

信仰生活はそれ自体が目的ではなく、あくまで実績を出す為の動機を備える為に必要なものだ、とある。だから実績を残さなければ信仰生活をしている意味はなくなる。もちろん実績は外的なものだけでなく、内的実績もあることは認識しておかなければならないが、内的実績は時間を経て外的に現れる。信じることが事実上目的になってしまっているから、信仰生活が観念的なままでも不自由しないし、実質的信仰には至らない。本当に実績を持とうとすれば実質的信仰にならざるを得ない。信じれば天国に行けるのかというと信じるだけでは天国には行けない。イエス様も天国は信じるところにあるのではなく私にあると言っている。それは主体的内容を自分で決めなければならないということだ。天国は誰かに連れて行ってもらうのではなく自分が決めるということだ。信じると言う場合は私に無い他の何かを信じるのであるし、そうではなく私の中にあって私と一体であれば信じるという意志も必要なく、信じる前に既に私と共にある。私自身でもある。観念的信仰は内的なものの写し鏡である現実に対して表象する力とはならずこの世的現実に飲まれたままだが、実質的信仰に至れば現実にも実績として現れて当然だ。御父様は「信仰の中心に対してはっきりとした信念を持つように」と言われている。この言われた意味がよくわからないままで次なるみ言葉に簡単に進んで素通りしてしまうから、依然として信仰は観念的なままだ。しかしこの言葉に実質的信仰とは何かが言い含められている。信仰とは言葉の通り信じて仰ぎ見ることだが、仰ぎ見る対象を常に大上段に最高位の神様であり御父様だと捉えても、底辺である堕落圏の現実生活に私が存在する以上、最高位の神様は実感できず神様とおぼしき観念に留まってしまう。観念的な実質のない信仰から実質的信仰になるためには、信仰の中心に信念を持つ必要がある。人間も中心である核に霊の柱が立たないと、霊のない人間、霊人体の完成のない人間であり、肉体を脱いだ時霊界の存在にはなれない。そういうふうに人間に霊の柱が立たなければならないように、信仰にも中心に信念を核として持たなければならない。御父様は獄中伝道でみ言葉を語って伝道されたのではなく、伝道への信念を持たれたから人々が御父様の元へ集ってきた。私達は伝道もしなければならない、氏族も復帰しなければならない、献金もしなければならない、その前に先ず生きて生活しなければならない等と、あれもこれもと思っているが、欲を持ってもあれもこれもできる訳がない。この世の者達が生きるので精一杯であると同じように、私達も生きるので精一杯だ。為さなければならないどれ一つをとっても、信仰が必要であり信仰の中心、信念が必要だ。伝道するなら伝道の信念、ある道で成功者になるにはその道の信念、信念の持てない目標を持っても為せるか為せないかは誰も知らないし神様ですら知らないが、自分自身がもっともよくわかっている。「山の頂上に上がることを願うならば、夜も昼も行かなければならない。そして心の世界で千回万回行って見て正しい道だと感じたとき始めて行動できる」と例を示して教えておられるが、正しい道だと感じる、という信念はそうやって持つものだ。そうなると信念とは登っては降り、登っては降りしながら持つものなので中途でどうだろうと感じたら麓まで、すなわちゼロ地点まで戻る必要がある。今までの歩みでどれほど腰折れしてきたことだろう。腰折れしたのは信念がないにもかかわらず、言われたからやるという観念的信仰にとどまったままで形だけやっている風で取り繕った結果だ。さらに腰折れした結果を放ったままで別の山を目論むが、信念がなければどれほど山々を渡り歩こうが結果は同じことだ。信念を得るまでの霊的内的筋力が不足している。

2014年11月13日木曜日

今日の想い 810

あの噂の統一教会と言われても今の今は否定のしようがない。この世の倫理道徳的観念からすれば煙たがられて当然だ。だからと言って信仰を捨てたところで私を中心とするみ旨が進む訳ではないし、社会感情を納得させて摂理が進む訳でもない。抜け出た者に対してはこの世はウエルカムなのだろうけれども、それは教会と社会の溝をより深めることになる。この世の私達に対する認識は、結果的にそうならざるを得なかったと言わざるを得ず、しかしそれはそれで私達の責任を問われても仕方がない。確かに表面的現実的には風当たりが強いのは変わり様がなさそうだが、近寄りたくもない私達の存在の中にこそ実はあらゆる問題を解く鍵があるのであって、近い将来人類は内外共に行き詰まり、切羽詰まったその時には評判など気にしておられず、私達を訪ねて鍵を受け取らざるを得なくなるだろう。そんな状況になるとは食口ですら思ってもいないが、必ずそうなるのは既に確定済みだ。地上の振動数が上がっていき人間の内面が触発されることで誰もが霊的感性がある程度開くようになる。そうなると自分の霊界の実状を受け取らざるを得ないし、その悲惨な実状に救いを求めざるを得ない。自分の霊的位置が見えたぐらいでは動かないかも知れないが、霊的乾きと霊的病は肉体の病の比ではなく、放っておくわけにはいかなくなる。その時の状況は朧げに見ながらもひしひしと感じていて、時を経る毎にしびれが来るようなピリピリ感が強くなっていく。霊的船団が地球に到来して地上を覆うのも時間の問題だ。時間の流れは更に急流域に入ってそのまま暗黒時間に突入するはずだし、それと共に霊的船団が空を覆うのを多くの者達が見るだろう。本来基元節がこのD-DAYだったわけだが、条件満たずで延長されてしまった。もし基元節のあの時点で強硬的に発動されれば、それなりに摂理に貢献してきた食口ですら少なからず引っ掛かってしまっただろう。よって延長路程に入らざるを得ず、御父様の基元節前の御聖和は言うなればD-DAYは2013年1月13日と数年前から決定され公言されてしまったことと関係があると思っている。御聖和と引き換えに、或いは霊界に行かれて霊界に足場を置かれることで、D-DAY延長の神霊的役事をされた。延長はされたけれども、やがてその時が来ることは確定済みで、その時に備える内外の条件を揃える為に寝るのも惜しいというくらい切実であるべきだ。未だに内部の混迷に翻弄されている者もいるし、天の願いと方向を違えて教会分裂に拍車をかける者もいるけれども、D-DAYのその日その時をどう迎えるつもりだろうか。人類の霊的感性が開き霊的に彷徨っていることを自覚した者達に対して、導いて行ける内容が私達に備わっているだろうか。

今日の想い 809

稚拙な霊的認識が曖昧で観念的な信仰生活に留まらせ、実質的信仰生活とはならない。神様神様と唱えるが、見えない神様、五官で感じ取れない神様を、ただ唱えていれば実感できる訳ではない。こんな物言いをすれば分かり切った事をと反感を覚えるだろうけれども、反感を覚えながらも実のところ唱えるばかりで、信仰生活は観念的なままだ。原理を受け入れた者が先ず陥る落とし穴は、それまで存在するか否かわからなかった神様、さらには存在するはずもないと思っていたサタンを、原理を受け入れたことで急に現れて話しかけるが如くに認識したつもりになってしまうことだ。頭で理解することと実感的に認識することとは別物であるにも係わらず、頭で理解したこと即実感的認識だという思い込みに陥ってしまう。もちろん人間は神とサタンの中間的位置にある訳だけれども、しかし人間のすぐ上に神様がおり、人間のすぐ下にサタンがいる訳ではないし、ましてや知ると同時に認識出来る訳でもない。神様の認識に至るにも段階があり、サタンの認識に至るにも段階がある。それも一段二段どころの段階ではない。原理を受け入れて先ず出発すべき認識への道は神様とサタンの認識ではなく、神様への道半ばの善神の業、サタンへの道半ばの悪神の業、としての善神であり悪神だ。生活を通しながら善神を見出していくべきであり悪神を見出していくべきだ。どこに神様が働いているかではなくどこに善神の業が働いているか、どういう形で働いているかを問う必要がある。伝道で一人の人をみ言葉に導いて、神様の導きがあったと言えるのは、原因的には神様の導きあってのことだとは言えるとしても、神様の導きと結果の間には何段階もの霊的役事を経ている。にも拘らずみ旨の願いと同じ方向であったとしても、良いことが起これば神様、悪いことが起こればサタンと単純に決め付けてしまうことで中途の霊的役事を無視してしまうことになる。そういう極論的な認識指向は信仰生活を観念的に留まらせるし、信仰生活の為の霊的筋肉が弱いままで、悪いことが続け様に起こってしまうと途端に信仰を失ってしまう。起こる事柄の中には善の要素もあり悪の要素もある。だから実質的信仰を備える為には、自分を中心として起こる周囲の全ての要件のその背後の意味を問うという、内的霊的作業が必要になる。そこには同じ要件であっても私の態度によって善神の働きを見たり悪神の働きを見たりする。しかし善神の働きを見ながらも驕りや甘えを付着させてしまい、その背後に隠れている悪神が顔を見せて引き摺り下ろそうとする。そのように背後は実に複雑で、そういった霊的存在達に翻弄されない為には信仰のイロハとして先ず謙虚さという霊的筋肉を培う必要がある。今まで神のみ旨だと言いながら歩んできたけれども、いつ如何なる時も善神が働いていたと断言できるだろうか。私達の思い込みで突っ走った為に導かれるはずの人々の御父母様への因縁を断ちきってしまったことがなかっただろうか。み旨だと信じて歩んだ中にサタンが背後から操られていた部分が全くなかっただろうか。霊界に通じれば思いもよらぬ霊達の讒訴に驚かされることだろう。謙虚さは歩みと共に付着していく悪の要素をゼロ点に戻して再出発する霊的筋肉だ。再出発だけれども一からのやり直しではなく、ゼロ点であるけれども次なる次元へのエレベーターが用意されていて、結局は神様に近づくべく聖霊や神霊に出会える次元上昇への近道だ。

2014年11月9日日曜日

今日の想い 808

御父様が完成、完結、完了の言葉を地上生の最後に口にされたことと、十字架への道を前にしてイエス様がゲッセマネの祈りで神様に訴えられ、しかし最後は御意のままにという言葉をして手放されたこととを比べてみれば、御父様は本当に勝利されたのだという感慨が内から沸々と溢れてくる。実体の天一国をまだ見てもいないのに、どうしてその言葉を口にできるのだろうかと思うのであれば、私は現実に囚われ現在を足場にして未来を見ようとしているだけだ。現在の私がおぼろげに見通す未来は不確定要素に満ち満ちていて、よって現実だけを私は把握し現実だけに生きている。しかし御父様の見通す未来は不確定要素はなく確定している。完成完結完了の実体的表象を確実に見ておられる。それは希望的観測で見ておられるのではなく、既に決定付けられたものとしてある。もし私が御父様との一体圏に入れるなら、私も完成完結完了の確定的未来を共有し、そうなると一体圏に入った私が、過去である現在の私を勝利の確定的未来へと導くようになる。完成完結完了の言葉は、御父様の使命は果たしたから後は私達の責任だという言葉でもなく、ましてやできてもいないものをできたという御父様の独りよがりの言葉でもなく、完成完結完了の確定的未来を勝ち取られた言葉だ。よってそれぞれの確定的未来への道のりは異なるとしても、確定的未来は既に完成完結完了している。しかし人間としての自由と責任がある以上、その道のりが直近的なものかどうかはそれぞれに任されている。御父様御聖和前後の混沌ぶりは誰の目にも明らかだった。御父様の御側で、御父様一体圏で歩まれたはずの諸先輩が、その道のりを大きく外していった。聖書に記された如くまさに上の者が下に、下の者が上にという状況であり、天国は激しく襲う者によって奪われている。そんな状況であっても、否そんな状況であるからこそ私の位相をワープできる。御父様との幾星霜の距離から御父様が抱いて下さる圏内に瞬間移動できる。御父様一体圏の中心的核に近付けば近付くほど、み旨を遮るかのように見える否定的現実に晒されるとしても、それに翻弄されるのではなく否定的だと思われた現実から確定的未来の頂上に向かう次なる門を開く鍵を見出していく。もちろん表面的には苦しくもあり塞ぎ込むようでもあるけれども、私の内面の中心では隠された鍵を探す面白みを子供のような無邪気さで味わっている。

2014年11月8日土曜日

今日の想い 807

公金なのか私的なお金なのかの判断はその所有権がどこに属するかという問題ではある。しかし利益などの有形無形の結果ばかりを見ているが、その所有権がどこに属するかは結果を創造する過程に於ける投入を誰が為して来たのか、すなわち経営権の問題なくしては所有権だけの論議や判断で見えて来るものではない。意外と私達は結果ばかりを注視して公的なもの私的なものと割り振りしているが、公私の区別はそんな単純なものではない。ある会社のオーナー(経営権の保持者)が会社のお金を流用して豪奢な家を買ったとしても、それは横領とは言わない。配当(公から私へ)の手続きを無視して使ったという税の問題であり帳簿の問題だ。経営権を持った者の経営のルールの問題だ。このオーナーは社会的に見て誰も公金横領だとは言わない。そのように所有権を主張する以前に所有をもたらした経営権を無視し、単純に所有だけを見て公私を決めることはできない。結果的全てに公私の区別の色付けが既にされていると思っているから、結果を排出する為の投入、経営の苦労や痛みなどはなから経験しようとはしなくなる。戴いて手にするものだけを如何に使うかだけが意識にあって、もらうのではなく自分で創りだそうとはしなくなる。信仰はあるけれども生活観念は共産主義的だ。形だけ経営に携わっても能動的にはなれないために失敗するはめになる。今までの教会が携わってきたビジネスの累々たる失敗の軌跡を見れば推して知るべしだ。食口が社会的実力を持てないのは公的私的の間違った観念があって、それが常に受動的生活姿勢を取るようになり、貰う者から差し出せる者という能動的な位置に立てなくなっている。所有権しか意識にないから経営権に思いは至らない。公金に対する観念を清平にも当て嵌めている。集まったお金について私的流用だどうだと口にする時点で清平をビジネスの土俵に引き摺り下ろしている。清平はビジネスではないにも拘わらずビジネスの土俵で訴えている。また清平の解怨料は教会への献金とも異なっていて、料金を払ったのに解怨されていないという訴えは出来るとしても、運営以外に使っていると訴えることはできない。私のことを言うなら、解怨して戴いたと信じているしそれによって体も癒して戴いたから感謝こそすれ流用に対して疑問を抱く余地などないし、どう使って戴いても何の懸念も挟まない。ワールドセンターの建設も天正宮の建設も私達の献金で造られたのではなく、大母様訓母様の献金で造られた。だから御父母様は訓母様を称えられた。

2014年11月7日金曜日

今日の想い 806

世の中は金か?そう、世の中は確かに金で動いている。金で動いているから社会は経済という血流で運営され統制されている。それぞれは金を動かすことで社会生活の基盤となしている。そして金の量と質を決めているのは国家主権者であり、覇権団体だ。国家主権者も覇権団体も人で構成されているけれども、動かしているのは人を介してはいるが目に見えない霊的団体だ。無意識にも霊的団体の指示を背後から受けて踊らされている。人や組織は持っている金の量によってそれ相応の権限を行使しているが、金の量を決めるのは覇権団体の要請に応じる国家主権者だ。主権者は覇権団体の要請を断れない以上、実質的には覇権団体がその主権を握っていることになる。アメリカで社会生活をしていればドルに依るわけだが、FRBや主要銀行が政府へ要請し、政府は国債発行してFRBがそれを買い取る形でドルを流す。そこから流れ出るドルを運用する銀行を介してドルの供給が行われ、経済に影響することによって結果的にドルの価値が決められる。結果的に価値は決められるのであって新たに流すドルと既に流して回っているドルとは同じ価値とはならない。すなわちドルの量を倍に増やしても価値が倍増して国力も倍増する訳ではない。真の愛は流されれば流されるほどさらに供給されるが、金の価値は流せば流すほど価値は薄まっていく。やがてはハイパーインフレとなりお金は紙屑同然にまで価値は落とされる。真の愛の本質と、価値が定まらないお金の本質を私達はどう繋げて行ったらいいのか。心身一体圏を標榜する統一食口であるなら天で通ずる愛と地で流通する金、この分断された天と地の血液と血流の橋渡しの役目を担って当然だ。日本は千兆円を越える国債が発行済みで、アメリカは四兆ドルを越える国債が発行済みだ。個人や団体なら莫大な借金を抱えて自己破産し倒産して当然の状態だ。しかし国家経済の場合返済を要求されないしいくらでも国債発行できる。昔はこんなことはできなかったが、それを可能にしているのは、或いはそうせざるを得ないのは国際金融の土俵に国家経済が引き出されて立っているからだ。金融は経済に影響を与え、経済は国家に影響を与える。よって国家の首長と言えども先ず自国経済に振り回され、自国経済は国際金融に振り回されて、国家理想を立てようとする首長権限にも陰りがある。この金融の首根っこをどうやって掴むか。この金融の怪物を手懐けた者が世界を制するはずだ。霊的団体によって国家経済が手玉に取られていることを最初に述べたが、その霊的団体は金融の怪物の元にあって訝(いぶか)りながらも歩調を合わせている。その訝りながらの行動が莫大な国債発行となっている。

2014年11月6日木曜日

今日の想い 805

南から8時間もかけて兄弟が訪ねてきた。休憩を入れずにドライブしても往復で半日以上かかってしまう。本当は来なければならない理由があったのだが、来て見たら手の平を返された格好になってしまった。それならそれで分かった時点で相手方が連絡してくれればいいのに、その辺が甘いというか常識に欠け、ふざけていると思われても仕方ない。食口と言われる私達の、今まで責任感情を覚えなくてもやってこれたという甘えがそこに見える。はるばる北上してきた彼は明日の営業に間に合うよう、とんぼ返りしなければならないので小一時間しか話せなかったが、向かい会って顔を見ながら話すのは電話ともスカイプとも違って内面に落とし込むものがあって実に良かった。御足労かけた彼には申し訳なかったけれども貴重な時間を持てた。お互い同じように店を任されてやっていて「いずこも同じ秋の夕暮れ」で、人手不足の為に苦労している。その為、今まで従業員に任せていてやっていなかった作業を最近また始めたようで、彼が言うには、心配だったけれども昔手にしたものは手がしっかりと覚えていて不自由なく作業がこなせたと話していた。思考は頭でするものと思っているけれども、彼が言うように実は手も思考し記憶する。ピアノコンクールで優勝した辻井青年の演奏に身を傾けると、盲目でありながら見事なラフマニノフを演奏して感動させてくれるのは、目に頼ることを越え、頭脳的思考経路を越えて、手が独立しているように手の記憶、手の感情、手の思考を通して高次の霊界が直接的に表現していることによるものだ。手がそうであるように足も記憶し思考する。目も耳も頭にとっては受け取る感覚器官に過ぎないのだが、目自体が、耳自体が、記憶するし思考する。頭で思考する限りは霊的感性を啓発するには程遠い道のりも、頭の縛りを解いてそれぞれの器官の記憶や思考を認識できるようになると、途端に霊的感性は冴えわたっていく。同じ景色を見るにしても人によって受け取り方は千差万別だ。それはそれぞれが無意識的に頭が見たいように見ているし、見たくないものは見ないからだ。しかし頭の縛りを越えて目自体の記憶と思考に頼り始めると、思ってもいなかった霊的存在が迫ってくる。もちろんだからと言って見せられたもの全てが真実だとは言えないし時として危険ではあるけれども、少なくとも堕落圏に束縛された頭からはいくらか解放されることになる。動植物の集合魂の記憶や感情を、神霊が自然の表情に表現する記憶や感情を、人々の個なる魂のみならず彼等に再臨協助している霊達の記憶や感情を、外界が死んだ機械的科学認識としてではなく、生きた生命ある霊として、即ち思考し感情し意志する霊として私に働きかける。カフェに腰を下ろすや否や、彼は成功し発展する次なるビジネスとして、あちこちに意識の光線を宛がいながら、あれはどうかこれはどうかと矢継ぎ早に提案してくる。直ぐに飛び付けるようなものではないにしても、なるほどそういう見方もあるかと気付かされた。