2018年10月30日火曜日
今日の想い 1018
南海トラフ地震は必ず起こる。必ず起こるけれども生きてきた経験上は今まで起きなかった。だから起こるというのは思考上のことだけで感覚上は起こらないと感じている。それは死についても言えるし、世界経済の破綻についても言える。感覚上は死ぬとは感じていないし、また今日使えるドルや円が紙切れになるとは感じていない。しかし思考上の事柄を感覚上の認識に近付ける能力を人間は与えられている。それが想像を働かせるということであり、イメージする能力を人間は与えられているから未来に対処することができる。このイメージを研ぎ澄ましていくとインスピレーションに至るのであり、インスピレーションできる霊的感性を更に高めていくとイントゥイションとして未来や過去を霊視霊聴できるようになる。しかしそこに至るには多くの地上的能力を捨てなければならないのであり、そうなると生活に支障を来してしまう。しかし現代人の霊的感性はどんどん高まっていて技術革新はそれ故に発展してきた。食口であればここで一つの疑問を抱くはずだ。そうであるなら霊界も霊人体の存在も知り、原罪も消され悪霊も清平で取り除かれ、そうなると最も霊的に研ぎ澄まされるべき食口からどうしてノーベル賞級の発見をする者が出たり経営者としての知恵に長ける者が出てこないのか。しかしその疑問は霊界を認識する者からすれば的を得ていないことがわかる。地上の技術や能力はルーシェルの一群が握っているのであり、歴史的に見ればアベルではなくカインの系統からインスピレーションを得ている。アベルはカインを屈伏させて天に繋げる祭司長の系統を繋げてきた。祝福家庭は天の中心的役割を担っており、すなわちアベルの系統の中心存在として立ってきた。自由という概念も元をただせばカインの系統からルーシェルの光として輝き始めた概念であって、私達が自由の概念を得て自由の領域を広げようとすればルーシェルの屈伏を得てこそ受け取ることができ、更にその一群の屈伏を得ながら自由領域を広げることができる。後天時代に入って食口それぞれに意見できる意識の光を得たのは、御父様の勝利圏を私達が相続したからであり、それ故にこれからルーシェルの霊的専売特許であった自由の翼を広げて摂理の展開を推し進めていくことができる。そして巻頭に記した内容に戻ると、後天時代に入った今こそイメージを働かせインスピレーションを受け取り、精神分野においても環境に必要な技術革新分野においても、そして銀行に牛耳られてきた世界経済分野においても、創造的発展に向けて自由の翼をはばたかすべきだ。地震の先に見えるものがあり破綻の先に見えるものがある。その意味では私達こそD-DAYの先陣を切っている。
今日の想い 1017
人は確実にこの世を去る。そしてそのときを確実に迎える。しかしこの事実をどれほど強調しようにも、周りでバタバタと人が死んでいく状況や人がイメージとして捉えられる数年先までの死の宣告がない限り、なかなか死の準備、それを終活と表現していいのかどうかわからないが、特に内面について整理に手を付けようとは思わない。では食口はどうかというと、原理を受け入れ、死後に住む霊界の存在を知っているなら、旅立つ準備に関してはこの世の人達とは異なって当然なのだが、果たしてどうだろうか。自分の霊界での様相と使命、すなわちあるべき姿勢といくべき方向性をはっきりと捉えていて、その準備を死の門をくぐる前にしておかなければ、み言葉は聞いたけれども受け止めておらず、祝福は受けたけれども実にしていないという、結局普通に生きて死んでいくこの世の人達と変わらない人生だったということになる。もし天国に行けると思ってひたすら御父母様という存在に寄りかかる信仰観なら、ものの見事に裏切られるだろう。霊界の報告を聞けば天国は犯した罪を首からかけて生活するわけで、それが言葉通りの天国だというなら私は御免被りたい。そこには教条主義で善悪存在を振り分ける真の愛とは名ばかりの冷たい世界が広がっている。天国は既に作られて用意されているところではなく、真の愛の満ち溢れる世界を私達の手で創造していかなければならない。もしその霊界報告が正しいなら、それは仮の天国であって本天国とは異なる。私達祝福家庭は天国創建のブループリントを御父母様から頂いていて、それに沿って私の天国建設の使命が何なのかを死の境界を超える前に悟って準備しなければならない。地上天国が為されていないように天上天国も為されてはいない。地上で解かれることは天でも解かれるのであって、ブループリントを祝福によって新たに備えられた魂でしっかりと読み解きながら、真の愛が地上で投入されれば天地を直通させる高速道路はそのまま天上の天国建設を促進していく。今の状態を正反合の反と解くのか、或いは正分合の分と解くかは誰々の責任だという他力的なことではなく、そこに真の愛が私を発信地として投入されれば正分合になるしそうさせる使命がある。私達子女としての霊的使命は、子女として母に対するのに真の愛で対しているかどうかを問われている。それは生きて御父様を霊界に送った子女として霊界の境界を超える前に、母に対してそれぞれが結論付けなければ、霊界で子女の位置に立てるという自信を見失うことになるし、それは霊界で御父母様を見失うことを意味している。
2018年10月25日木曜日
今日の想い 1016
御母様が原理を理解しておられるか、言っておられることが正しいかどうかは重要ではない、というか詮索する意味がない。万民を祝福するという御父母様の意志を確認できればそれで十分だ。成長した子女の位置でその意志を高く強く掲げて進むことが祝福家庭の本分だ。祝福を与えようとすれば祝福の権威や尊さを理解していなければならないが、そのイメージを先天時代の教会に縛り付けてしまうと数字の達成と協会員加盟へのサインで満足しかねない。祝福はそれで完結するわけではない。霊的生命への責任を取って教育もし続け見届けなければ祝福の実は実らない。子女にはそれぞれの成長過程がある。先天時代の様に組織体制を強化して十把一絡げで推し進める必要は後天時代にはなくなった。御母様の言葉そのままをスポンジのように吸収できる幼子食口はそれはそれで御母様には必要であろうし、かといって40年を超えて信仰を繋いできた食口が幼子返りしても摂理が進むわけではない。それなりに成長した子女であればそれ相応の母への接し方があるはずだ。しかし真の父母の位置で万民を祝福したいとされる母の願いと意志だけはしっかりと受け止めなければ、子女としての道理は立たない。もちろん子女としての言い分もあって、一人娘の権威を立てられる以上に貴方たちは一人娘から生まれた子女だと一言でも言及して下さったら母としての威厳は立つだろうにと思うのだが、食口の誰もそんな言葉は言えないだろうしその時期でもないだろう。どんな御母様であっても、たとえ霊的認知症になられようとも、御母様は私の母であり私は御母様の息子ですというその因縁は既に運命を超えて宿命になっている。それだけに日本を貶められる言葉を聞くと他の誰の言葉よりも心が痛い。
2018年10月24日水曜日
今日の想い 1015(独生女信仰)
出張清平がアメリカに来ている。DCは既に終わったがラスベガス、そしてシカゴが残っている。私は今なお引っ越すことができずにDC界隈にいるので既に終わったのだが、結果報告だけを言うと今回辞退した。妻の状態を考えて妻に留まるよう説得した。しかし私自身が行きたいという切望がなかったのも事実だ。清平信仰は清平信仰で私に取って重要であることに変わりない。以前にも記したように、私は清平で肉体的癒しを授かった。それに対して感謝の想いがないはずがない。しかし右に倣えで他の食口と同じように行動すればそれで信仰が立つわけではない。同じ行動することで安心感を覚えても、それは信仰ではなくその場限りの感情だ。もちろんそれは私に関してであって、参加した兄弟はそれぞれに霊的な恩恵に与るべきだと思っている。こういう言い方ができる変化が私の中で起こっている。私にとって御母様の独生女宣言に対する信仰形成は実に劇薬的に働いている。先ず最初は御父様のみ言葉理解に働いた論理思考を破壊することから始まり、次には涙で語ることができない御母様を認識していた私の感情は、権威で胸を張り強い口調で述べられる御母様を受け入れられず、その感情を破壊しなければ私はいつまでも後天の入り口で足止めを食う。しかしその感情自体が心情に通じていたのかというと、今に思えば都合のいい我良しの感情も含まれていたと思える。その感情が御父母様と同じ世界復帰への意志を差し出す訳ではなく、心情らしき自己満足に浸るだけだ。思考を壊され、感情を壊され、そして摂理へ向かう意志を強く維持しながら、新たな信仰を受け入れる思考と感情の魂を自分の中に用意している。この意志は良心を磨き続けなければ弱くなってしまう。良心改革と御父様は言われたが、今まで差ほど意識しなかった良心だったが、心の奥底から常に引き上げる作業の為、慣れ親しんだ今までの思考や感情を常に押しやらなければ引き上げて意志の方向性を取る羅針盤として働かない。ある意味適度な祈りや字面を追うだけの訓読の時間浪費でさえ良心はくぐもってしまう。御母様の2020への屈強な意志と通じる意志を持とうとすれば、独生女宣言に短絡的に反応するのではなく、独生女宣言を鏡にして己の本性を暴き出し、破壊しなければ御母様の意志は相続できないだろう。
2018年10月21日日曜日
今日の想い 1014(独生女信仰)
今は後天時代だということ。それは良くも悪くも御父様がおられ、御父様が陣頭指揮を取られた体質や体制ではやっていけないということだ。御父様がおられる故の摂理に対する甘えや責任放棄の抜け穴も正直あって、それ故に今の情けない体たらく状態を見ている。先天時代の信仰をそのまま引き継いでいれば地上天国ができると、その確信のある食口は本当にいるのだろうか。馬鹿の一つ覚えの様に申し訳ありません申し訳ありませんばかりで、摂理だみ旨だと言いながら、1頑張ります2出来ません3申し訳ありませんの3つをルーティーンで繰り返しているだけのことだ。出来ないことが既に常習化している。御父様が全ての摂理の中心だから全ての失敗は御父様の責任になることを理解しないといけない。私の失敗は御父様の失敗となる。失敗体質や失敗体制は悪であり、一回全て壊さない限り成功体質や成功体制という新しいものは築けない。ビジネスでいうスクラップアンドビルドだ。体質に負の要素が浸みこんでいるのに、その体質を踏まえて成功できるものを築こうとするソフトランディングは不可能だという経験からだ。その意味で御母様が全てを壊して出発されるのは、世界復帰の責任を引き受けられるからこそだ。精神的土台である私達の信仰すらも否定する出発を願われている。独生女信仰は先天時代にない全く新しい後天信仰だ。証しが立つどころかカルトまがいの疑いまでかけられて、一体私達の歩んできた内容の何を誇れるのだろう。最低限それを踏まえて御母様への意見は発せられるべきで、私達に於いても独生女は受け入れられないと決めつける以前に、どうしたら世界復帰に責任が持てるかの後天時代ならではの戦略を示して、結果をそれなりに出して、その上で意見を言うなら道理が立つのであって、何の戦略も実りも出さずに頑なに受け入れられないでは通じる話も通じない。取り敢えず立てるべきは女性だろう。要するに教会も男社会の慣習や負の要素が摂理を妨げている。ある意味、御父様の築かれた内容にモノが言えるほどに御母様は訓練されたのであり、それこそが御父様のもっとも勝利された内容だと思えなくもない。御父様の一喝にも動じない御母様を御父様の否定と見るか、或いは御父様を超えられたと見るか、、。私達も摂理に対する責任をしっかり引き受けて、御父母様を超える者とならなければそれこそ申し訳ないだろう。御母様にものが言える自分になることこそ御母様への孝情だろう。
2018年10月16日火曜日
今日の想い 1013
自分の人生をかけて天宙復帰に身を投じ、世界の復帰、人類の救いの為に奔走してきたのではなかったか。今どこにその結実を見ることができるだろうか。私達は清平の建物の為に歩んできたのだろうか。結実をそこに見るとして、それで自分の良心は納得するのだろうか。祝福を受けて先ず安心し、子供に祝福を受けさせて更に安心し、それで自分は満足して心置きなく霊界に旅立てる。本当にそうだろうか。その自信が霊界の入り口を超えてまで続くだろうか。祝福の証を立てられないという現実、二世の大方が祝福を受けていないという現実、それにも関わらず自分は祝福を受け子供も祝福を受けたことだけで安堵して居られるのはどうしてだろう。それは我良しの自己中心とは言わないのだろうか。人の痛みを自分の痛みと感じる感性は一体どこで失ったのだろうか。信仰の実りはその感性を強くするものだったはずだが、その逆だったのだろうか。最初に教会を尋ねた時には確かに愛があったはずだ。自分にもあったし教会にもあった。伝道目標もあるにはあったが救いたい一心で声をかけたはずだ。かつて真理と神霊を求めた私は今、実はずっと昔に諦めていて、惰性か言い訳の為に信仰を繋いでいるのではないだろうか。本当に求めた結果を受け取れなかったからか、それともやはりボタモチが落ちてくるのを待つだけの私だったからか。あらゆる問いかけが朝に夕に心の中を駆け巡る。駆け巡って爆発しそうになる。私の良心はこのままで終えようとする私を責め立てて許さない。
2018年10月15日月曜日
今日の想い 1012
オウム事件から学べることがある。いや学ぶ必要がある。それはオウムと私達がよく似ていて、やもすれば彼等と同じ内的状況に陥ってしまうからだ。陥ってドツボにはまり抜け出せなくなる。彼等は実は信仰を要する宗教を求めたのではなく、感覚で受け取れる神秘を求めた。どれだけ神秘体験をしたとしてもそれで人格が向上するわけではなく、彼ら自身は霊的に高められたつもりでいたかも知れないが、異常感覚や興奮感覚を覚えただけでそれをこの世の人間を超えたと勘違いしていた。霊的なことを感覚的なことで実感しようとするのは形を変えた唯物主義者だ。感覚で地上は実感できるけれども同じ感覚で霊界は実感できない。神秘体験したとしても霊界の事実をそのまま受け取ったのではなく、象徴的、あるいは比喩的に、時として全く逆のイメージとして体験している場合がある。私達の中にも自分は霊的だといって、夢を見たり幻を見たりしたこと、感じたことをそのまま霊的事実やお告げだと言い広める食口もいるが、それは霊界を理解していない。それは宗教人ではなくオカルト人だ。正確にはオカルトでもなくオカルトもどきだ。宗教と科学の統一、霊界と地上界の壁をなくすというのはそういうことではない。オウムは良心と良心の背後に存在する神様を無視した。日本の信仰は多くが日和見主義的で、周囲を見ながら内面への波風が立たないように配慮する信仰に傾きやすく、それは受動的信仰に留まらせ主体的能動的信仰とは異なってくる。霊感商法、そして募金を隠れ蓑にした万物復帰も、自分としての意志を持たない受動的信仰だからこそ中心の願いの手足になれたのであって、当時能動的信仰に立っていればそれなりの道徳心によって成り立たなかっただろう。中心の願いが強盗や殺人でなかったから良かったものの、この受動的信仰はオウム真理教に帰依する信仰観と同じ危険的要素を孕んでいる。幸いなことに御父様は良心に対するみ言葉宣言をされたので私達は能動的信仰に立つことを許された。しかし先天時代の受動的信仰を後天時代に入っても維持し続ける食口は、良心の声を意識できないまま川に突入する豚の群れの一人になってしまうだろう。この三分裂した状態で流石に良心の声の重要さを思い知るかと思いきや、益々良心の声を無視し続ける者がいる。誰に付き従うにしても、或いは正しい御方に自分を預けるとしても、良心を無視したまま従うことは返って霊的破滅に向かうことになるだろう。誰に従ったかではなく、それが良心の声に従った行動なのかどうかを問われることになるからだ。
2018年10月11日木曜日
今日の想い 1011
長い間ビジネスに関わり思うことは、食口は教会体質に毒され、洗脳を受けていると言われても仕方がないということだ。教会の関与する殆んどのビジネスが利益が出ない、すなわち発展的ではない実情があるように、この部署に於いても利益が出ないという問題が会議の場でいつも提議される。そして既に出尽くしている利益が出ない原因をいつの会議に於いても繰り返し繰り返し、そしてああそうですかと納得した風にして会議は終わる。私に言わせれば利益がでないのは当然であって、それは旧態依然とした体質を引きずったまま新たな体質を築こうとする意志の不在が本質的課題としてあるからだが、そこまで深堀する責任者はいない。以前はビジネスとは名ばかりの、給与体制ではなくファミリーファンド、すなわち必要経費だけを給与の代わりに宛がわれて謂わば奴隷的に働き働かせることで利益を計上させてきた。奴隷と言われれば気分を害するのだろうが、食口は運営上の歯車でしかなかったし、歯車としては磨き上げられたがそれ以上を求められはしなかった。レストランという決められた空間と決められたルーティーンジョブを毎日繰り返す時間が全てであって、新しい空間を求めたり創ったり、決められたレール以外を歩む別の時間を経験したりということは歯車としてだけ訓練された食口にとっては見知らぬ世界だ。その受動的体質は会議にもそのまま表れていて、終始イエスマンで中心者の意向に沿う形に会議を終えようとする姿勢にそれが見える。中心との一体化を物言えぬイエスマンと勘違いしている。一体化という絶対服従の勘違いは、与えられた環境に対して歯車として自分を合わせることではなく、新しい空間と異なる時間を創造する本然の意志に従うことだということがわかっていない。それは能動的自分を復帰して取り戻さなければ、子女の位置にはいつまでも立たないという奴隷に甘んじたまま先天時代の信仰を維持し続けることになる。蕩減は既に終わっている。意志を持つ復帰された自我を取り戻したはずだ。その新しい自我は自由と責任の神霊と共に時代を創っていく。
2018年10月7日日曜日
今日の想い 1010
原罪のあるないの論議はやめた方がいい。血統の元を見れば堕落の存在でありながら、その上に形成された魂の知情意でもって判断しようとすること自体無理がある。どうしてもその判断が必要であれば、祝福血統の三代圏を超えた霊的基盤の上で形成される魂に委ねるしかない。良心の声に忠実であれば判断できるというのも間違っている。だいたい良心はそんな判断はしない。良心の声は私を霊的にどう生かしどう立て直すかであって、原罪のあるないの地上的判断は霊的なこととは異なる。知的にあるいは感情として認めるとしてもそれは知的に論議を楽しんだだけであり、或いは自分の気分として落ち着きどころを見つけただけであって、魂を超えた霊的生命は異なる次元にあって霊的に生きることに必死だ。信仰の道を歩んできて、原罪のあるないの論議とは別に、また御父様と御母様の言われることが異なって躓くのとは別に、さらに真の御家庭がバラバラになっているのとは別に、自分の良心に尋ねることで霊的に活きる道を歩んでいるのかどうかはわかる。原罪がなくなったといって堕落性をそのままにしておいては、原罪を帳消しにしていただく意味はないように、原罪の問題や御母様への疑問、ご家庭の問題に頭を突っ込んだままみ旨への意志を失えば、元々許され救われる為に歩んでいたのではなく、批判し論議するためにこの道に立ち寄ったに過ぎない。それこそが山羊の正体だ。救われる魂を持つ羊だというなら外に問いを立てる前に自らの内面に問いを立てるはずだ。私は何の為にこの道を選び何を得るために歩んでいるのかと、、。そして御写真の前で私はこう言うだろう。正直に言って独生女の意味もわかりませんし、原罪が何かもおぼろげですが、私は御父母様によって魂を救われました。赦され救いに与った息子の位置で良心に鑑みて生涯御父母様に侍ります、、と。
2018年10月6日土曜日
今日の想い 1009 (男と女)
私が生きてきて最も不可解なのは、宇宙でも霊界でも人の世でもなく、何言おう女性という存在だ。女性という存在ほど不可解なものはない。もちろん妻を与えられ一緒に半生を共にしてきた訳だから、どう感じ何を考えているかは大体わかる。しかしそれは相対としての妻であって、妻は女の括りにはあるが私に対して女性を持ち合わせてはいない。女性としての妻はあるのだろうが一人の女が妻となってからは女性を感じ取ることはない。ようするに情動は動かない。極と極、東の果てと西の果てに男女は存在しているというみ言葉があるが、極と極でわからないからこそ惹かれ合う、というのも一理はあるかも知れないが、私が頷けるのは逆で、知りたい理解したいという衝動が働く以前に先ず惹かれてしまうという情動の事実がある。堕落と関係のある異性への情動がどうして発動されるのかまったくわからない。男性としての自分の中に情動を発動させる引き金があるからだが、それは私自身が引くのではなく明らかに女性が引いている。自分ではうかがい知れない間合いや状況で、一方的に引っ掛けられるように引き金が引かれる。私達の祝福結婚はその情動からの結婚ではなく、男として父母から一方的に一人の女を与えられて先ず体を合わせるところから出発する結婚だ。要するに器官を合わせそこから情を起こさせ魂の一体化に向かわせる。情動から出発すれば相手に向かっていた感情が切れてしまえば縁も切れてしまうが、絶対信仰すべき器官から出発したので感情がズレても(それは頻繁にズレるのだが)それでも絶対信仰すべき合わさった器官があるので縁が切れることはない。その意味で祝福結婚は過去にない画期的な儀式だろう。私の周りに女はいくらでもいる。その多くの女たちは媚を売るでもなく目を合わせるでもなく何の関係もなく素通りしていく。しかし或る女は女性を見せて足を止め、私の情動への引き金に手をかけていく。その女性としての女のあらゆる部位から見えない手が伸びている。流れる髪や透き通る肌から、瞬く瞳や潤う唇から、女のあらゆる部位から情動を弄び穿刺する口吻なのか、その類の見えない多数の触手が延びて弄ぶ。この歳にしてやっと、いくらかは客観的な観察ができるようになったが、自分としてはこの女の性という不可思議存在であり危険存在達が、周囲に満ちる環境圏をよくも生き延びてきたものだと感心する。堕落したエバは今も女の中に女性として生き続けている。女の性の中に霊的存在として生き、男性に関与し続けるエバの存在を創造された神様、その神様の危険極まりないエバ創造の意図もまた不可思議の領域にある。女性全般の霊エバによって情動という男の性が引き出され、引き出された情動は女性と一つになりたいと体当たりしながら恋愛感情を爆発させる。それに関わる全てが堕落性だと断定することもできるけれども、愛と性(エロス)の間の深い溝を埋めるのに、霊界と地上界の間の深い溝が堕落によってもたらされたという同じ言い方で言えるのかどうか、それは今の今までわからない。しかし縦的関係性に於いては霊界と地上界の間に深い溝があり、横的関係性に於いては女性と男性の間に深い溝がある。この人生でひとつわかったことは、霊界への溝を埋めるのに強い酒や麻薬は禁じ手で犠牲や苦難が正しく溝を埋められるように、異性への溝を埋めるには異性への嗜好や性の悦楽は禁じ手で忍耐や自制でこそ溝を埋められるという事実だ。
2018年10月4日木曜日
今日の想い 1008
普通の魂では決して受け止められないはずだ。それでも受け止めておられるということは、余程の覚悟が背後にある。それは我々凡人の計り知ることのできる域を超えている。自分には理解できないといって背を向けるか、理解できる度量を超えたものとして取り敢えず受け止めるか。しかし受け止めはしても相対できる糸口を模索しながらだろう。それは本当の意味で受け止めるための緊急避難的な仮ステージでしかない。仮ステージに立って、それほどに距離を置いて見たとしても、私にはその魂の苛酷さが伝わってくる。その覚悟を是が非でも維持されるために、見ようによっては頑ななほど鎧を装われる。隙間にも弱みを垣間見せてしまうと、嗚咽の感情がそこから噴出して始末に負えないのだろうか、ひたすら内に内に抑え込まれる。私はかつてこれほどの痛ましい魂を見たことがない。生身の普通の魂の人間からすれば、その深みにあるものを見通せず、到底受け入れることはできないはずだ。見通せないということは表層的である人間性でしか判断できないからだ。私達の使命は何だろう。何をして相対に立てるのだろうか。本音の欠片でも吐露すれば霧散してしまうイエスマン達。それでも信じて相対して下さるのは何故だろう。勧められて話始めようとするハナから、涙を流され嗚咽される姿が、私の頭にこびりついて離れない。なのに今は、これほどに鎧を厚く装われ涙の欠片も見せず、笑みすらもぎこちない。食口に限らず人間誰であっても、歳を重ねれば苦しい胸の内を何度か味わっている。抱えきれない魂の痛みや苦しみに翻弄されながら、それでも乗り越えてきたのはそれ相応の覚悟を差し出してきたからだ。この魂の砕けようとも、と差し出す覚悟を天が取って下さり、生きる道を勝ち取ってきた。この桁はずれの、幾重にも重複されて折かぶさる責め苦。その責め苦に耐えられる魂と覚悟とはどれほどのものだろう。願わくは相対として立つことのできる食口の一人でも二人でも現れてほしい。
2018年10月3日水曜日
今日の想い 1007
今はまだ余裕がある。余裕があるから御母様がどうの御子女様がどうの等とアグラをかいて言える。そう、自分も含めて未だ余裕がある。そのうちに、そんなことに頭を突っ込んでいる余裕はなくなるだろうが、今はある。だから感情としては私自身もあまり表現したくない意見も多々持っている。しかし誰が口角泡を飛ばして評論できる立場にあるというのだろうか。摂理を担ってきた一世食口がもっとも悔い改めなければならないのは御母様の言われる通りだ。今だけを切り取って誰が正しい誰が悪いなどとは言えない。いろんな摂理を担当してきたそのどれが御父様が認める勝利を打ち立てただろうか。言われるがままにやった、その通りだろう。結果責任を受け取らず、言われるがままにやることで受けた責任は全うした、そう言う食口がいるなら、それは子女としての食口ではなく奴隷食口でしかない。御心情を慮る責任感情のない者は御父母様に群がり散らばる一人に過ぎない。御母様に対してイエスマンである前に御父様に対してもイエスマンだった。側近の先生方も含めてほとんどがそうだろう。しかし誰も、どんな良心も、それは当然のことだ、それが絶対服従だと納得しているのだろうか。もしそうであるなら良心は神様に勝ると言われたみ言葉は間違っているし、良心など感情が引き起こした産物だという唯物論者の方が正しいことになってしまう。今の責任者は御母様に対して何も言えないと批判するのは真っ当なようだが、責任者は責任者なりに願いに応えてこられたから責任者であろうし、私の様に何の報告する実績もない立場で責任者をどうこういうのもおかしい。以前、あんたが実績だしているんだからあんたが中心者として責任を取ればいいと言われ、そのあまりにもな無責任ぶりに腹を立てたことがあったが、教会の体質として、あるいは今の御母様の状況として、イエスマンで対する以外今のところ次に繋げる道筋は見えないのかも知れない。今の状況は、それぞれの信仰判断として黒白を付けて行動してしまったら、それこそ返ってサタンの思う壺であって、政治的ではあるけれども次のステージにつなげる方が回り回って願いに応えることになるのかも知れない。黒白をつけろと責められれば崩壊しかねないだろう。
2018年10月2日火曜日
今日の想い 1006
霊的戦いの頂点が極められようとしている。ということは人類の末端に至るまで戦いが浸透する。万人の戦い、万人のそれぞれの戦いが繰り広げられ、誰一人として心安らぐ者はいない。それはどんな信仰を持とうがどんな神様に帰依しようが、また祝福家庭であろうがなかろうが関係ない。ある者は自然災害によって、ある者は経済的問題によって、ある者は人間関係の戦いだろうしまたある者は自分との闘いだろう。しかし全ての戦いは裏を返せば霊的戦いの人間に表れた様相となる。その戦いから誰も逃れることはできない。肝を据えて戦う以外ない。それは地上に生を受けた者としての責任でもある。そして祝福家庭であるなら十分戦いに勝てる備えを与えられてきたし訓練されてきた。もし御父母様に向かう信仰が自分の安寧を動機としているなら、それは悉く裏切られるだろう。もちろん誰しもが幼い信仰から出発する訳だから、最初は楽しい天国という餌に絆されてということもあり得るが、付き従う以上本質的信仰に叩き上げられていく。御父母様に向かうことは安寧どころか天宙を料理しようとされる最難度の霊的課題を突き付けられる。その覚悟がなかったら中途で距離を置かざるを得ない。教会に足を運んでいてもサンデー食口のままなら、既に距離を置いて身の安全圏を確保しているにすぎないだろう。御母様にどう接するかは食口それぞれだとしても、地上であろうが霊界であろうが身の安寧を動機とする行動なら吹き飛ばされるだろう。今の世界状況は経済だけみても綱渡り状態だ。ITバブルが弾けたりリーマンショックだったり、危機的状況を乗り越えてきたように思っているけれども、実は更にバブルを膨らませることによって大暴落大破綻の先送りをしたに過ぎない。先送りしても近い将来確実にその何倍ものメガトン級の事態に陥ることは確定されている。まさに時限装置が日増しに刻む音を高くしている。この人類史上というか天宙史上の頂点、いくらかは先送りされた地球星のD-DAYを目の当たりにする。
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