2022年9月29日木曜日

今日の想い 1190

青春を犠牲にしてきた。 貯蓄も年金もないなら人生そのものを犠牲にしてきた。更に子供が批判的であれ肯定的であれ、それすらも犠牲にしているのかもしれない。犠牲という言葉を何の見返りもなく奪われることだと理解するなら、悲惨な人生だろう。しかし犠牲は被害を受ける受動的立場ではなく、自らが自らの意志で引き受ける能動的立場の言葉だ。周りから見れば被害者にしか見えない私達は、私達の周りの者達こそ天情を受け取れない被害者であって彼等を救う為に犠牲を供えて来た、与えて来たという認識だ。周りがどう判断しようが私達は既に喜びの圏内にいる。どれほど貧しかろうがどれだけ批難されようが、そんな地上の事柄は学ぶ為であって、確かに地上には地上の感情があって当然左右されもするが、天には天の感情があって私達はそれを心情と呼んでいるが、その心情こそが地上の感情を凌駕している。貧しければこそ真の富や宝の意味を知り、奪われればこそ与える意味を知り、そして批難されればこそ理解し理解されることの意味を知る。生まれながらに富者であればそのありがたみはわからない。わからないと言う意味はその意味を知らずに霊界に向かうということだ。富そのものではなく富の意味を知り、与えることの意味を知り、理解することの意味を知る、すなわち自覚したそれぞれの意味は肉体を脱いでも霊界に携えていける。今回多くの批判を受けた。あることないこと様々な批判を受けた。批判を受けて多くを学ぶことができた。中には寄り添い理解を示そうとする人もいて、それがどれほど有り難いか。私達は確かに原理原理といいながら理屈で押し通そうとしたし、疲れて離れた食口を蔑ろにしてきた面もある。自分のことで一杯で食口間ですら寄り添うことなどなかったはずだ。これからも教会は非を認めることはないだろう。そうするしかないからだ。会見の場で被害者への謝罪の言葉がひとつもないと声を荒げた記者もいたが、御父母様の願いに応えて来たのに何の謝罪の必要があるのかと思うだろう。しかしそれでも、食口一人一人としては理屈を抜きにして謝罪する謙虚さを備えるべきだろう。失うものが多いとしても、謙虚さという愛の権威を末端から先ず立てるべきだろう。原理の教会以前に愛の教会だと信じるならばの話だが、、。

2022年9月27日火曜日

今日の想い 1189

 先ずマスコミを通して教会と御父母様に対する穿った見方が植え付けられれば、御言葉を受ける器は用意されないし、より深く探って知れば知るほどに、食口の畏敬の感情とは正反対の忌み嫌い受け付けない感情を覚えてしまうだろう。最も尊い性のはずが、堕落人間が性に対して覚える戸惑いや品性に悖る不愉快を覚えるように、私達の信じる本質も彼等に取ってみれば避けたい不快の感情を伴うものでしかないはずだ。この事実を取って見てもマスコミが犯した人類に対する罪は真に大きく、歴史を通して復帰してきた莫大な犠牲の条件も、この終末期にアボジの摂理観で先導されて捧げて来た食口達の犠牲も、全てを闇の中に葬り去ろうとする意志をマスコミ報道に見ている。マスコミに携わる者達の何と哀れなことか。自分一代の人生で悟れればまだしも、己一代の罪を後孫何代も費やして蕩減することになるのが原理だ。「彼等をお許しください。彼等は何も知らないのです」と天に仲裁してくださるアボジは既に天上の住人であって、誰が彼等を許す権威をもっているだろうか。食口を被害者扱いにして、救う正義を掲げ悦になっているようだが、それは御父母様を悉く貶めようとする魂胆であり、日本の影の罪の部分の開放の為に心身も万物も捧げ続けたその恩恵の上に胡坐をかいていた自分達だということも知らずに、教会イジメの黒祭りに踊り呆けている始末だ。確かに再臨論もアボジの反日思考も日本にすれば気持ちのいいものではない。全く事実に反していると詰め寄ることもできる。しかし村社会(イジメ社会)であり、声の大きい者に追随してしまう日本人の情けなさは精神をもった人格を疑うほどだ。この国民は精神の自由を詠う以前に精神性自体を感じない。今回、少なくとも食口の面々は日本人の位階の低さをまざまざと突きつけられた。

2022年9月23日金曜日

今日の想い 1188

 御母様は、これだけ情報が漏れ出て、公にはしてこなかった(古参のメンバーはほぼ知っているようだが、、)アボジの過去の見せたくない事実が明るみに出ることの食口への影響、公的機関への影響を心配されたのだろう。それで決意されたのが独生女によるアボジの尻尾切りだということ。御母様御自身が切りたいと思われたと言うことは、アボジの行動を摂理的に理解しておられない、あるいは許せないということだと思う。確かに独生女として罪のない血統に立ち、アボジは堕落の血統だとすることで、アボジが堕落圏から相対のエバを探して立てられたとの御言葉を逆にすることで食口達の信仰の維持、公的機関存続の維持を図られた。要するに独生女信仰はアボジとオモニの位置を逆にしてアボジの過去の尻尾切りをする御言葉逆宣言をされたということだ。私とすればアボジの過去が暴かれようとも、重婚や6マリアや御落胤等々を初めとする事実をもってアボジを判断することもないし、その使命や霊的位相を否定するつもりもない。多くを語られたアボジの内的霊的印象や、御言葉に流れる心情や真実性からして私の良心は完全屈服している。勿論社会的道徳的人間である以上、引く思いもあるにはあるがそんなこの世的感情を立ててアボジに向かおうとは思わない。おそらく多くの古参食口はそうだとは思うが、揺れ動く二世や若いメンバーのこと、歴史に残っていくことを思えばこその御母様の決断だろう。それはそれで敬意を表するし御母様の言動には問題があると言うつもりもない。しかし霊的に未熟で見通せない私にすれば、アボジの尻尾切り方針と、教会の何とか商法や献金強要の過去の尻尾切り方針がリンクしているようで、何とか合わせてワープできる抜け道はないものだろうかと無い知恵を絞りたくなる。摂理に限らず何をするにしても功罪併せ持って前進するしかないのであれば、唯一つ時間こそが解決するのかも知れない。

2022年9月21日水曜日

今日の想い 1187

 教会のどこが間違いで、日本食口の何が問題だったのかと問うだろう。しかし間違いと思ってなければ間違いではないし、問題だと思っていなければ何の問題もない。世間やマスコミがどう喚き立てようが我が道を行き関知せずだ。信仰とはそういうものだろう。食口の中には、私達の在り様、或いはメンタリティーとして自分の中には何の答えもないから、常にアベルであれ誰かに教えてもらわなければ正しい道はわからないし、だから教会にも所属し繋がりを持っていなければ御心に適う私にはなれないと思っている。自分の中に答えがなければ当然教会の間違いを判断もできなければ、イエスマンである自分を不思議とも思わない。そういう信仰観であればそれ以上進言することはない。献金要求の大きさに表面では辟易しながら、しかし辟易も含めて苦労する自分に信仰実感を覚え、御父母様との繋がりを感じている。よって献金ノルマ等の指示がなくなれば逆に信仰的に不安になる。世間ではそれをマゾヒスト的と呼ぶが、日本食口にしてみればそれこそがみ旨であり信仰人生の実感だ。私はそれを食口の独善だとは思っているが、そんな話をすると多くの兄弟姉妹は感情的になり聞く耳を持たない。そんな食口ばかりではないが、彼らにしてみればアボジに代わって指示を与えノルマを授ける信仰対象の実体がどうしても必要であり、御母様はその役目をアボジに代わり買って出て下さった。しかしいつまでも教会が必要な一人一人である必要はなく、教会卒業し御母様から自立し、良心の願う新たな道を標榜する食口がいて当然だ。そして自立したとしても御父母様を否定する訳では当然ない。今回のような、御母様の言葉に従う者達にとってはサタン的とも思われる外的批難と締め付けも、新たな次元に立って欲しいと願われる神霊的背後の許可があってこそだと私は思うのだが、多くの食口は否定的だろう。

今日の想い 1186

 日本食口はどうして生活もままならないほどに重い献金を押し付けられて来たのか。日本は歴史的蕩減が重いから、日本食口は日本を代表して韓国を支え、世界摂理を支える必要がある? だから日本食口は献金要求に応える責任がある? 実は日本の中心者だけがそう言い訳しそうしたいだけであり、また末端信者は末端信者でボロボロになりながら中心者が言うことを鵜呑みにするだけだ。エバが取って食べるように言ったからそうしました、と同じように中心者がそうしろと言うからそうしましたと馬鹿の一つ覚えのように言っているに過ぎない。今回はこういう摂理、次はこういう摂理と矢継ぎ早に要求のされるままに何十年も送金し続けて、中心者はその都度投入した経過や結果を尋ねたことがあるのだろうか。見返りを求めず只同然に差し出してそれなりの結果がでることは先ずない。見返りを求めないのが愛だが、万物を只同然に差し出せば消えて当然であって、万物主管とはそういうものだ。中央銀行ではないので輪転機でその都度刷れる訳もなく、耐えきれない重荷を末端信者に背負わすことになる。その痛みが実績として実るのであれば言い訳にもなるだろうが、博打打ちのように偉い先生方が殆ど擦って終わりが実情だ。「でもアボジが要求されるから」、、勿論要求される。何故なら要求するだけ出すからだ。出すのを止めれば要求されない。アボジの顔色を窺うことに汲々としてきたのが中心者だ。しかしそれは仕える姿勢でもなければ信仰でもない。否定されることへの恐れがそうさせてきただけだ。オレオレ詐欺は日本が最も多い。ほぼ日本だけの問題といってもいいくらいだ。それは日本人が要求すれば出そうとするからだ。後々に何か起こりそうな不安と恐怖から逃れたいがため、金を出したら解決するという安易な方法に飛びつくからだ。だから同じように日本食口も日本の中心者も要求されれば出そうとする。先回差し出した投資に対する経過や結果も聞かずに、、。受け取り方、そして差し出し方の万物主管をないがしろにすれば当然しっぺ返しを喰らう。愛による万物主管とは到底言えない。

2022年9月18日日曜日

今日の想い 1185

メディアという情報権力にどう対処していくのだろう。政治的圧力をかけるにも良好な関係をいくらか保っていた自民党でさえこの体たらくだし、司法への提訴を考えるとしても兎に角時間がかかり何年という年月を必要とする。メディアに対してはメディアというのが最も効果的だとは思うが、主要テレビ局はどこも横並びでイジメに終始し、180度スタンスを変えた立場の情報を流すところなどどこにもない。教会側から少々の抗議文を送ろうが、カエルの面にしょんべんで、短い回答文にもならない回答文を差し出して教会を舐め腐っている。外的世界観に立てばそんな愚痴しか出てこないが、しかし食口がアボジの霊を戴いたのであれば、この現実を霊的に捉えてこそ意味をなす。先ずこの批難の嵐こそが食口にとってのノアの洪水だと思うべきだろう。ノアの洪水は大気中の大量の水分が40日40夜雨となって地上に降り注ぎ、結果大気中の水分が大幅に減って太陽と青い空が見え虹がかかった。この事件は暗い夜と明るい昼がはっきりしたということでもあり、霊界と地上界がはっきり分かれたということでもあった。ではこの40日40夜の批難の嵐が食口にとってどういう意味があるのか。今回の件でおそらく教会が指示していた活動は止めざるを得ないか、大幅に縮小されるはずだ。本来先天時代が終わるときにそれまでの先天的信仰観は総括して後天時代を迎えるべきだったが、放せない既得権もあって惰性的に維持されて来たので、今回こそ外的要因によってではあるけれども全食口が総括する機会が持てた。批難の雨風に晒されながらそれでも残るものが何なのか。教条的枷が流されることで今まで見たくても見れなかった後天時代の太陽を拝むことになる。それは良心という霊的太陽だ。そう、アボジの御言葉の最終結論ともいえる良心宣言だ。心と体を持つ私という箱舟の、良心という羅針盤を中心とすれば、私が歩む摂理の方向性を間違えることはない。

2022年9月12日月曜日

今日の想い 1184

食口達の危うさは、御言葉全体の本質を捉えようとせずに、断片を継ぎ合わせることで信仰的といわれるイメージを植え付け、あるいは植え付けられ、それを本質だと盲信していることだ。今回の問題が浮上したことでその弊害を食口全体の中に見ている。一つは今回の問題の影響力の大きさに対して皆があまりにも楽観的だということ。ここまでの問題であるにもかかわらず、皆の中に信仰の在り様への反省や総括も当然ないし国を挙げて批判の対象にされていることへの危機感も欠如している。自殺まで考えた食口もいたと言うことだったが、そこまで思い詰めるほどの危機感を持っている食口が果たしてどれくらいいるだろうか。何故なら信仰が強いからそうなのではなく余りにも素直で、言葉を変えれば余りにも稚拙で、食口が共有している信仰的イメージというお花畑に魂は留まったまま現実の危機意識は希薄だ。まさしく恐れを知らない子供の群れだ。日本の国民が見事にメディアの教会に対するイメージ付けに簡単に嵌ってしまっているように、食口は共有している信仰的在り様というイメージ付けに嵌っている。教条を順守していれば神様が導いて下さるという風にイメージ誘導されている。本来、教会の取り決めを守るだけで人格が完成されるのでもなければ、神様が導いて下さるわけでもないのに、難解な御言葉より教条が分かり易いし恐怖と平安の感情と直接結び付いているので教条を守ることだけに意識は集中される。要するに食口は教条主義にある原理圏なので安心だという魂の御利益信仰に陥っている。そして今一つは御言葉信仰を持たない世間、非原理圏に対して差ほど関心はなく、国家的意識、社会的意識に欠けている。かつては共産主義の脅威に晒される危機意識があってその為の具体的活動もしていて救国救世の意識に貫かれていたが、そういう教育はされているかも知れないが具体的活動は献金ノルマ対策と祝福ノルマ対策であり、そこに救国救世の活動や公的意識はない。日本に住みながら日本国の恩恵を受けているという実感がない。もちろん世界摂理は大切だ。しかし自分の立ち位置である国を蔑ろにして到底世界復帰など為せるものではない。

2022年9月7日水曜日

今日の想い 1183

摂理は既に二世以降の手に渡されている。一世が歩んだ結果世界を良くも悪くも引き継ぎながら、あるいは好む好まざるに関わらず引き継ぎながら、宿命的歩みとして前進していく。あまりにも負の遺産を背負わされて大変だと誰もが思うかも知れないが、日本が歩む道も世界が歩む道も大きな分岐点に差し掛かっていることは間違いなく、これからの激動期を日本人誰一人として避けられないのであれば、そうなると内的霊的に訓練を受けてきた者が俄然強いし力も発揮する。日本に関しては分断されるかそれを好まないなら改革するかの二択しかない。しかしメディアがここまで日本人を洗脳してしまった以上改革するにも時間的余裕があるのかどうか、、。日本食口は今こそ救国救世という国家摂理に、意識も思考も行動も重心を移していくべきだ。貧国となった我が国から差し出せる献金もないし、ここまで反家庭連合の嵐が吹き荒れて伝道もないだろう。一世は国のために生きて死ぬ姿勢を二世に見せるしか彼等に残せるものは何もない。しかしその生き様こそ二世への最大のプレゼントであり重要な相続案件だ。確かにアボジが改革して教会を無くそうとされたが、長く続いた組織体制も個人の信仰にもそれなりの吹き溜まりの部分が生じて難しかった。要するに政治でいう既得権であり組織と個人の持ちつ持たれつの関係が改革を阻止してきた。今回の外部からの力はサタン的と言えばそうなのかも知れないが、神も許可を与えなければサタンというかカインのカイン圏も我々を打つことはできないのであり、しかし日本食口への縛りである献金と伝道から解放されたのは確かだ。そしてこの縛りからの解放が救国救世に向かえば摂理には大きな益となるはずだ。日本食口が日本を愛する魂を取り戻し、救国に生きれば日本は必ず変わる。

今日の想い 1182

 人間は知情意の魂の存在だが、意志としての行動は知である論理と情である感情の授受作用で行動を起こす。論理が先か感情が先か、論理と感情のどちらが主体でとちらが対象かはそれぞれの背後に流れる霊の位階によって決められるが、一般の人間は生活重視なので快不快を伴う感情が大体主体に立っている。感情が主体に立っている人間にどれほど論理で正そうとしても、先ず自分の感情ありきの(感情主体の)論理だから理詰めで説得しようとしてもほぼ無駄骨でしかない。今の日本の悲劇は、メディアによって彼等の向かわせたい方向に視聴者の感情を誘導することができることだ。日本は法治国家ではなく情治国家だと誰かが言っていたが、全くその通りだ。それは教会内でも言えることであって、中心者の向かわせたい方向に食口の感情を誘導してきたのであり、洗脳という言葉はエキセントリックないい方だが当たらずども遠からずだ。天情に徹すると言うのは個人的感情に対していう言葉だと思うが、天情の理解など到底できないので、アボジからアベルである中心を通して伝えられる指示に従う事で天情に従うものと誘導されてきたしそう信じ込んでいた。そしてそれは先天時代でアボジが陣頭指揮を取られている間はそれは正しいものとされ良しとされていた。そしてアボジを頂点にしてアボジの指示に従う信仰のピラミッド体制がアボジを真の父母たらしめた。御母様が私がいなければアボジはメシアとして立てないと仰ったのは或る意味正しくて、同じ意味で真の父母は私達祝福家庭がいなければ立てなかった。アボジが天情を理解していたか、すなわち神様と同じ想いだったのか、それを証明するには恐らく1000年を要するだろう。勿論私達は信じているがしかし全人類にとっては仮定に過ぎず、天の心情を相続したであろう祝福家庭を歴史を通して繋ぎながら、後孫後輩達の魂に働きかける協助による意志の発動で証していくことになる。一世は自分がそう決めて歩んだ道であって運命的な歩みだったが、二世以降は既に一世の歩みの影響を受けざるを得ない宿命的な歩みとなる。運命とは前から来る選択可能な矢であるが、宿命は選べない背後から突き刺さる矢のことを言う。摂理の道、路程に於いてはアボジは宿命的であり一世は運命的だが、二世は自ずと宿命的にならざるを得ないからアボジの歩みと深いところでリンクしている。

2022年9月4日日曜日

今日の想い 1181

自分の人生を生きた一世は何の文句もないだろう。自分で選んだ道であり、自分の意志で心身も万物も捧げたのであり、そして全てをこの道にかけたのだから教会をどうこう言う筋合いは毛頭ない。しかし二世となると話は違う。一世にしてみれば御言葉にあるように家庭がどれほど重要であるかはわかっている。だから子供に対して、愛するが故に価値あると確信するものを当然教えて来たし、お前は好きなように生きなさいとはどうしても言えない。しかし二世にしてみれば、食べたくもないのを食べさせる親のように信仰教育も子に良かれと信じて押し付けるのは親の独善としかとらない。親の想いが強くて切実であればあるほど、子は追いつめられる。多くの祝福家庭はどこも大体同じような状況で、我が家庭も親子関係は修羅場を何度も見てきた。親ガチャという言葉を実感を込めて受け取る子供達とは異なるのかも知れないが、貧しかったりイジメにあったりという親ガチャ部分に加えて、それ以上に親の想いが重荷になったに違いない。家庭の深刻な状況も年を経るにしたがって一応表面的には収まる。と言うか内面を開かせようと向かい合えば傷つけあうだけなので、せめて拳の届かない程度に距離を置く。そんな位置で思いを巡らせてみれば、愛と一言でいうけれども愛の本質はどうにも計り知れないし、ますます愛がわからなくなる暗闇の底にいるという実感だけだ。明らかになったことは、私が愛と認識していた愛のイメージは悉く砕け散ったこと。その私が二世の為にどうのこうのと講釈することができるだろうか。只の一つの言葉すら持ち合わせていない。今の私は二世教育に対しては全く下を向いて項垂れるしかない。あるいは敢えて御言葉と信仰的感情を遠ざけて、物分かりのいい一人の友として子との距離を縮めていくか、、。

2022年9月3日土曜日

今日の想い 1180

 日本の教会は宗教法人格を返納して解散すればいい。メディアはあることないこと好き放題言い、恰好のイジメ対象として祭り上げているが、問題はそれ以上に食口の中に反旗を掲げ反論する意志が見当たらないことだ。そして本部からも頑張れとは口にして韓国ではデモという形で応援もしているが、メディアに対して圧力をかける具体的な働きかけが起こされる訳でもない。すでに教会時代は終わったと話されたのであり、教会から家庭連合になったのは本来そういう意味であって、名前だけ挿げ替えて宗教法人を延命することではなかったはずだ。いつまでも半永久的に貢いでいて果たしてそれが母の国と言えるのかどうか、韓国は韓国で日本に対してはいちゃもんばかりで、日本を相対だとは全く見ていない。日本は母の国ではなく聞こえの良い母の位置を名ばかりに与えながら実質奴隷だし愛人の位置にもないだろう。皆に理解して欲しいことは、兎に角アボジの言いなりで良かった先天時代は終焉したのであり、さらにアボジ御自身も聖和されたということ。この摂理的現実の意味をしっかりと良心を通して尋ねて捉えて欲しい。御母様に対してアボジに向かっていた同じ帰依、同じ態度を取っても、所詮アボジのようにはいかないし無理があるということ。祝福家庭の全てがアボジの遺言中の遺言である良心宣言、良心は親に勝り師に勝り神様にも勝るというこの最終結論を蔑ろにしないで欲しい。アボジの聖和をもって、実体御言葉として外面に見ていた神様は御言葉訓読しながら私の内面に見出すという、地軸転換、両極転換の天宙史的事件が起こった事実を実感できないとすれば御言葉もアボジも霊界も霊的意味も理解してはいない。

今日の想い 1179

 食口ははっきりと自分にも周りにも断言する必要がある。自分の国は日本なのか韓国なのかそれとも他の国のどこなのか。もっとはっきり言えば、この国の為に死ねるのか或いは主の国韓国の為なら死ねるのか。アボジは韓国人だから、世界をどうこう言うまえに先ず韓国の為に生きたのであり韓国の為に日本を何とかしようとしたのであって、だからアボジの言われたままに従うのであれば日本を捨てて韓国の為に生きてきたということではないのか。私は御言葉は霊的なものとして捉えているので表現された言葉を逆説的に見る。或る面アボジは日本を悪く言い日本食口を殊更にプッシュし続けたのは、反動的な動きとして自分の国をより強く愛する方向に向かわせようとしたのだと思っている。もし韓国人であるアボジが日本食口に甘ければ韓国人が良く思わないし従うはずもない。そして日本人は罪人だ何だと言いながら多くの万物を引き出した。言動と行動そのものを見れば、日本にしてみれば悪鬼の頭そのものだし事実そうだ。日本の食口は言われるままに拠出しながら、ある時点でハタと気付かなければならなかった。アボジの鬼の追及は何の意味があるのか、日本食口をプッシュしながら日本の為だと言われるその真意は、日本からの献金が投入されながら湯水のように使われ流される現実をどう捉えるのか、など深く天に問い尋ねる意志、そしてアボジにぶつける意志をもったことがあるだろうか。実際はそれを無視してきた訳だが、それを問わずに続けてきたことは逃げであり惰性であり無責任だ。結果、アボジを悪鬼の頭として日本中が認識し公開処刑されている。日本の誰もメシアとは信じないだろうし真の父母の顔につばしている。こうなることを誰一人予測していなかったのだろうか。であれば日本食口は余程のポンコツだ。「日本の食口は苦労してきたよ。」この言葉を感動で受けとめて更なる奴隷的働きに邁進するのか、あるいは苦労を認めて下さるなら母の国として意見の一つも言わせて下さいと懐に入っていくのか、、。勿論聞く耳持たずケンモホロロなのかも知れないが、奴隷的立場を去りたいのであれば届けるかどうかは万物を拠出している側に権限があることも事実だ。ヤコブの知恵をいうならこういう場でこそ使うべきであったと、私は溜息をつきながら思っている。使う側の責任と同じように出す側の責任も問われて当然で、その責任をアボジに擦り付けようとしているのが私達今の日本食口だ。

2022年9月1日木曜日

今日の想い 1178

 安倍元首相の暗殺、からのマスコミによる度を超えた教会イジメ、更に教会と何らかの関係を持った政治家達へのこじつけ糾弾、国葬反対のデモ、この一連の流れの背後にそうさせる何らかの意志が存在することは先ず間違いない。この一連の出来事で最も喜ぶ大国があり、そのスパイが間接的陽動作戦として関わっているはずだ。しかし兎に角謝っておけばというスタンスの自民党にも歯がゆい思いはあるが、それにも増して苛立たしいのは教会の指導者責任者の態度だ。分派に対してはあれほど感情激しく立ち振る舞いながら、しかしメディアに対しては立ち上がるどころか背を丸めて息を潜めている。政治家にも教会指導者にも背後に存在している闇を感知できる者はいないのだろうか。それとも恐れ怖気づいて関わりを持ちたくないのだろうか。一抹の希望はやがての攻勢に打って出るための共同作戦であって欲しいが、そんな気配は感じられない。おそらく隣の大国は、日本の世論がかくも簡単に操られ思いのままになることを確信したに違いない。日本は武器を用いての戦闘なくして十分勝てると、、。教会がアボジの千里眼を相続しているのなら、もはや左派に対して戦意を失っている日本だと分かった以上、少なくとも食口だけでも海外移動させる手配を早々に計画する必要性を知っているはずだが果たしてどうだろう。アボジの示された摂理を継承する為には共にあって訓練もし内外の相続もしてきた食口を救っておかない手はないはずだ。確かにこれまで失敗の連続であったとしても、それでもアボジに取っては腐っても鯛の存在だ。腐っても祝福家庭であり腐っても第四次アダムの群れだ。おそらく叩かれ続けて信仰の炎も消えかかっている状態なのかも知れないが、生きて働かれる神様を遠からず見ることになるだろう。しかしその神様は摂理を進められる神様であって、地獄から天国へのエスカレーターを用意してくれる御利益神様ではない。身を挺して、地獄行きを決意して戦う意志のない者は、神様は一瞥だにされない。