先ずマスコミを通して教会と御父母様に対する穿った見方が植え付けられれば、御言葉を受ける器は用意されないし、より深く探って知れば知るほどに、食口の畏敬の感情とは正反対の忌み嫌い受け付けない感情を覚えてしまうだろう。最も尊い性のはずが、堕落人間が性に対して覚える戸惑いや品性に悖る不愉快を覚えるように、私達の信じる本質も彼等に取ってみれば避けたい不快の感情を伴うものでしかないはずだ。この事実を取って見てもマスコミが犯した人類に対する罪は真に大きく、歴史を通して復帰してきた莫大な犠牲の条件も、この終末期にアボジの摂理観で先導されて捧げて来た食口達の犠牲も、全てを闇の中に葬り去ろうとする意志をマスコミ報道に見ている。マスコミに携わる者達の何と哀れなことか。自分一代の人生で悟れればまだしも、己一代の罪を後孫何代も費やして蕩減することになるのが原理だ。「彼等をお許しください。彼等は何も知らないのです」と天に仲裁してくださるアボジは既に天上の住人であって、誰が彼等を許す権威をもっているだろうか。食口を被害者扱いにして、救う正義を掲げ悦になっているようだが、それは御父母様を悉く貶めようとする魂胆であり、日本の影の罪の部分の開放の為に心身も万物も捧げ続けたその恩恵の上に胡坐をかいていた自分達だということも知らずに、教会イジメの黒祭りに踊り呆けている始末だ。確かに再臨論もアボジの反日思考も日本にすれば気持ちのいいものではない。全く事実に反していると詰め寄ることもできる。しかし村社会(イジメ社会)であり、声の大きい者に追随してしまう日本人の情けなさは精神をもった人格を疑うほどだ。この国民は精神の自由を詠う以前に精神性自体を感じない。今回、少なくとも食口の面々は日本人の位階の低さをまざまざと突きつけられた。
0 件のコメント:
コメントを投稿