2022年9月4日日曜日

今日の想い 1181

自分の人生を生きた一世は何の文句もないだろう。自分で選んだ道であり、自分の意志で心身も万物も捧げたのであり、そして全てをこの道にかけたのだから教会をどうこう言う筋合いは毛頭ない。しかし二世となると話は違う。一世にしてみれば御言葉にあるように家庭がどれほど重要であるかはわかっている。だから子供に対して、愛するが故に価値あると確信するものを当然教えて来たし、お前は好きなように生きなさいとはどうしても言えない。しかし二世にしてみれば、食べたくもないのを食べさせる親のように信仰教育も子に良かれと信じて押し付けるのは親の独善としかとらない。親の想いが強くて切実であればあるほど、子は追いつめられる。多くの祝福家庭はどこも大体同じような状況で、我が家庭も親子関係は修羅場を何度も見てきた。親ガチャという言葉を実感を込めて受け取る子供達とは異なるのかも知れないが、貧しかったりイジメにあったりという親ガチャ部分に加えて、それ以上に親の想いが重荷になったに違いない。家庭の深刻な状況も年を経るにしたがって一応表面的には収まる。と言うか内面を開かせようと向かい合えば傷つけあうだけなので、せめて拳の届かない程度に距離を置く。そんな位置で思いを巡らせてみれば、愛と一言でいうけれども愛の本質はどうにも計り知れないし、ますます愛がわからなくなる暗闇の底にいるという実感だけだ。明らかになったことは、私が愛と認識していた愛のイメージは悉く砕け散ったこと。その私が二世の為にどうのこうのと講釈することができるだろうか。只の一つの言葉すら持ち合わせていない。今の私は二世教育に対しては全く下を向いて項垂れるしかない。あるいは敢えて御言葉と信仰的感情を遠ざけて、物分かりのいい一人の友として子との距離を縮めていくか、、。

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