2022年9月21日水曜日

今日の想い 1187

 教会のどこが間違いで、日本食口の何が問題だったのかと問うだろう。しかし間違いと思ってなければ間違いではないし、問題だと思っていなければ何の問題もない。世間やマスコミがどう喚き立てようが我が道を行き関知せずだ。信仰とはそういうものだろう。食口の中には、私達の在り様、或いはメンタリティーとして自分の中には何の答えもないから、常にアベルであれ誰かに教えてもらわなければ正しい道はわからないし、だから教会にも所属し繋がりを持っていなければ御心に適う私にはなれないと思っている。自分の中に答えがなければ当然教会の間違いを判断もできなければ、イエスマンである自分を不思議とも思わない。そういう信仰観であればそれ以上進言することはない。献金要求の大きさに表面では辟易しながら、しかし辟易も含めて苦労する自分に信仰実感を覚え、御父母様との繋がりを感じている。よって献金ノルマ等の指示がなくなれば逆に信仰的に不安になる。世間ではそれをマゾヒスト的と呼ぶが、日本食口にしてみればそれこそがみ旨であり信仰人生の実感だ。私はそれを食口の独善だとは思っているが、そんな話をすると多くの兄弟姉妹は感情的になり聞く耳を持たない。そんな食口ばかりではないが、彼らにしてみればアボジに代わって指示を与えノルマを授ける信仰対象の実体がどうしても必要であり、御母様はその役目をアボジに代わり買って出て下さった。しかしいつまでも教会が必要な一人一人である必要はなく、教会卒業し御母様から自立し、良心の願う新たな道を標榜する食口がいて当然だ。そして自立したとしても御父母様を否定する訳では当然ない。今回のような、御母様の言葉に従う者達にとってはサタン的とも思われる外的批難と締め付けも、新たな次元に立って欲しいと願われる神霊的背後の許可があってこそだと私は思うのだが、多くの食口は否定的だろう。

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