青春を犠牲にしてきた。 貯蓄も年金もないなら人生そのものを犠牲にしてきた。更に子供が批判的であれ肯定的であれ、それすらも犠牲にしているのかもしれない。犠牲という言葉を何の見返りもなく奪われることだと理解するなら、悲惨な人生だろう。しかし犠牲は被害を受ける受動的立場ではなく、自らが自らの意志で引き受ける能動的立場の言葉だ。周りから見れば被害者にしか見えない私達は、私達の周りの者達こそ天情を受け取れない被害者であって彼等を救う為に犠牲を供えて来た、与えて来たという認識だ。周りがどう判断しようが私達は既に喜びの圏内にいる。どれほど貧しかろうがどれだけ批難されようが、そんな地上の事柄は学ぶ為であって、確かに地上には地上の感情があって当然左右されもするが、天には天の感情があって私達はそれを心情と呼んでいるが、その心情こそが地上の感情を凌駕している。貧しければこそ真の富や宝の意味を知り、奪われればこそ与える意味を知り、そして批難されればこそ理解し理解されることの意味を知る。生まれながらに富者であればそのありがたみはわからない。わからないと言う意味はその意味を知らずに霊界に向かうということだ。富そのものではなく富の意味を知り、与えることの意味を知り、理解することの意味を知る、すなわち自覚したそれぞれの意味は肉体を脱いでも霊界に携えていける。今回多くの批判を受けた。あることないこと様々な批判を受けた。批判を受けて多くを学ぶことができた。中には寄り添い理解を示そうとする人もいて、それがどれほど有り難いか。私達は確かに原理原理といいながら理屈で押し通そうとしたし、疲れて離れた食口を蔑ろにしてきた面もある。自分のことで一杯で食口間ですら寄り添うことなどなかったはずだ。これからも教会は非を認めることはないだろう。そうするしかないからだ。会見の場で被害者への謝罪の言葉がひとつもないと声を荒げた記者もいたが、御父母様の願いに応えて来たのに何の謝罪の必要があるのかと思うだろう。しかしそれでも、食口一人一人としては理屈を抜きにして謝罪する謙虚さを備えるべきだろう。失うものが多いとしても、謙虚さという愛の権威を末端から先ず立てるべきだろう。原理の教会以前に愛の教会だと信じるならばの話だが、、。
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