2022年9月7日水曜日

今日の想い 1182

 人間は知情意の魂の存在だが、意志としての行動は知である論理と情である感情の授受作用で行動を起こす。論理が先か感情が先か、論理と感情のどちらが主体でとちらが対象かはそれぞれの背後に流れる霊の位階によって決められるが、一般の人間は生活重視なので快不快を伴う感情が大体主体に立っている。感情が主体に立っている人間にどれほど論理で正そうとしても、先ず自分の感情ありきの(感情主体の)論理だから理詰めで説得しようとしてもほぼ無駄骨でしかない。今の日本の悲劇は、メディアによって彼等の向かわせたい方向に視聴者の感情を誘導することができることだ。日本は法治国家ではなく情治国家だと誰かが言っていたが、全くその通りだ。それは教会内でも言えることであって、中心者の向かわせたい方向に食口の感情を誘導してきたのであり、洗脳という言葉はエキセントリックないい方だが当たらずども遠からずだ。天情に徹すると言うのは個人的感情に対していう言葉だと思うが、天情の理解など到底できないので、アボジからアベルである中心を通して伝えられる指示に従う事で天情に従うものと誘導されてきたしそう信じ込んでいた。そしてそれは先天時代でアボジが陣頭指揮を取られている間はそれは正しいものとされ良しとされていた。そしてアボジを頂点にしてアボジの指示に従う信仰のピラミッド体制がアボジを真の父母たらしめた。御母様が私がいなければアボジはメシアとして立てないと仰ったのは或る意味正しくて、同じ意味で真の父母は私達祝福家庭がいなければ立てなかった。アボジが天情を理解していたか、すなわち神様と同じ想いだったのか、それを証明するには恐らく1000年を要するだろう。勿論私達は信じているがしかし全人類にとっては仮定に過ぎず、天の心情を相続したであろう祝福家庭を歴史を通して繋ぎながら、後孫後輩達の魂に働きかける協助による意志の発動で証していくことになる。一世は自分がそう決めて歩んだ道であって運命的な歩みだったが、二世以降は既に一世の歩みの影響を受けざるを得ない宿命的な歩みとなる。運命とは前から来る選択可能な矢であるが、宿命は選べない背後から突き刺さる矢のことを言う。摂理の道、路程に於いてはアボジは宿命的であり一世は運命的だが、二世は自ずと宿命的にならざるを得ないからアボジの歩みと深いところでリンクしている。

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