2024年8月31日土曜日

今日の想い 1323

久しぶりに朝生を見た。平和ボケ日本では相変わらず軍拡への批判と、話し合いと外交で戦争を回避するという認識一辺倒なのだろうという先入観ありきで見始めた。若い女性も二人いて、特にこの二人の意見は聞き逃さないようにしようと眠い目をこすりながら頑張った。90を超える司会者はいい加減席を若い世代に譲ったらと誰もが思うだろう。頭の固さや頑固さもそうだが、とにかく活舌が悪くて聞き苦しい。彼に引導を渡せないのも日本社会故だ。言論村の重鎮には何も言えない。それはさておいて若い二人の意見だが、戦争の恐ろしさを知っている世代がいなくなったらとか、戦争の恐怖を伝えていくことで戦争回避できるとか、どうも闘うことイコール恐怖という風に刷り込まれているのか、先ずこの恐怖の感情あっての意見であったり議論であったりというのは果たして平和に対する前向きな態度と言えるのだろうか。人生の中で闘う場面は度々あるだろうに、そして闘うことの恐怖心を超えなければ希望はないように、人生での闘いと国家間の戦争との関連性は全くないと認識しているかのように戦争の恐怖を超えるのではなくひたすら避けようとしている。願わない喧嘩を吹っ掛けられても逃げるわけにはいかず、拳によらないにしても何某かによる闘いは避けられないわけで、そこの想像力が働かないのが平和ボケ国民の平和ボケたる所以で、やはりこの国には一発ミサイルでもぶち込まれなければ目は覚めないらしい。そうなると流石に外交だの話し合いだのという意見は吹っ飛ぶだろう。核保持による回避を議題に上げても、戦争の恐怖ありきの人間に核議論を持ちかけてもどうにもならない。

今日の想い 1322

 日本食口が今すべきことは修練会に参加することでも、信仰生活のルーティーンに忙しくすることでも、そして兄弟達の集まりで認め合ったり慰め合ったりすることでもない。今すべきことは、自分としっかり向き合い良心と対話すること。それは声を張り上げ誰に届くでもない言葉を羅列したり、気分の高揚や涙を流すことを目的化する祈祷条件でもなく、ひたすら納得するまで自分の内面に向き合い、或る時はさまよったとしてもそれでも内面に対峙することだ。自分の信仰が表面的なものなのか、内面のあらゆる霊を納得させた上での柱としての信仰なのか、先ずそこが神から自我を与えられた私の生きる信仰としての出発点だ。霊は私の外に見るものではなく、善霊であれ悪霊であれどんな霊であってもその霊の集合が私であり、そんな霊達の声々が止めどもなく我先に叫ばれ、声の大きい霊の群れが私の魂の衝動となっている。そんな自分の内面の実態を無視して、与えられた表面的信仰で紛らすことは良心の願いに生きることとは異なっている。先天には先天を主管する神霊の縛りがあって、良くも悪くも内面の霊は地の底に封印されていた。しかし現代社会の状況がありとあらゆる声を発する多様化された時代となって、霊達の露(あらわ)にされた姿勢や衝動を混乱社会に見るように、全ての人々の内面も地の底が撤廃され霊の洪水を起こしている。それはまさしくアボジが霊界と地上界の堺を撤廃されたことによる現象だと理解できる。聖杯が行方不明になり皆が囲っていた円卓が壊れたという聖杯伝説に見るように、アボジという聖杯は基元節を前に忽然と地上を去られ、教会という円卓は三分割から何分割にも壊されてしまった。神様と一体であられるアボジを探して出会おうとするなら外に探すのでなはく、内面を尋ねながら出会う道しか残されていない。しかしそれこそが神霊となられたアボジに出会う本道だろう。もちろん御母様に神様の権威を尋ねるのは間違いだとは毛頭思っていない。しかし御母様に侍るとしても御自身が私達を良心を尋ねる本道に導かれるはずだ。

2024年8月29日木曜日

今日の想い 1321

霊的に成長するという意味を本当に知っているだろうか。おそらく多くの食口は、成長するという、時には残酷でもある犠牲を含むその意味を知らずに生きている。人間の体の成長も生きている多くの細胞の犠牲の上に成り立っている。そのように霊的成長も同じように犠牲が伴うことを知らなければ本当の成長は為しえない。一世で献身を決意してこの道にきた者であれば、そこにどれほどの犠牲を払ったかを覚えているはずだ。先ず本人は親への想いを断ち切る必要があるし、当然親はその何倍もの想いがあり、それらを犠牲にして献身している。蓄えや職場などの外的なこともそうだが、断ち切らなければならなかったそれ以上の関係性は親子の事の他にもあった。もし献身して歩んできたことが本当に私の願う人生だっただろうかと問う者がいるとすれば、その決意は本物ではなかったという証拠であり犠牲を無駄にしてこの道に逃げてきたに過ぎない。だから後ろ髪をひかれるようにあの時に戻ってやり直したいなどと甘えごとを言う。戦時を超えて生きながらえた者は、後の日本の発展は戦死した戦友や親戚知人などの多くの犠牲の上にあることを魂に沁みて知っている。だからどれほど苦労の人生だとしても彼等の犠牲を無になど到底できないという想いがあって生きてきた。その想いは戦争を知らない世代であっても相続すべきもので、反戦教育で植え付けられる国家による被害と国家の否定という認識と感情とは全く異なる。人類が霊的段階を上げるべく発展してきた歴史を辿れば、新たな段階に踏み出す前には必ず大きな犠牲が供えられている。教会も摂理を進める為に多大な犠牲を供えてきたけれども、もしそれを被害と捉えてしまうと祝福家庭達の霊的段階を上げての発展は見込めない。アブラハムはイサクを犠牲にしようとしたけれども、もし冷酷にも神様が止めずにそのままイサクが供え物となった場合、そしてアブラハムが嘆き悲しみ恨んだ場合、それは犠牲ではなく被害でしかなかったしイスラエル民族の発展はなかった。全ての犠牲は人間的感情で捉えれば被害でかたずけられる。あらゆる辛苦のひとつひとつを被害として落とし込むのではなく、犠牲として昇華させてこそ霊的成長、精神の高みに段階を上げる。そして供えた犠牲が私と共に活きる。

2024年8月27日火曜日

今日の想い 1320

 左の頬を打たれたら右の頬も差し出す、というイエス様の言葉がある。クリスチャンの中にはこれを言葉のままを受け取る者がいて、それはできないとかそこまで犠牲的自分を差し出すとか思うのだろうか。ひょっとしたら食口の中にもそんな単純な思考を持っている者がいるのかもしれない。ようするに打たれる自分は打たれて当然どころか、それ以上に打たれるべきだと信じているということだ。左の頬を打たれたら右の頬を差し出す前に先ず打たれた意味を問うべきだろう。自分に問うてみてそして次の行動にでればいい。今回教会は見事に打たれた。左の頬どころの騒ぎではない。日本の教会は組織的には瀕死の状態だ。にもかかわらず、神様はいてそれは教会を潰そうとしている相手方の神様でもあり、私達を愛すると等しく教会を打ちのめす反対派も神様は愛しておられると言う。だからどうだと言うのか。打つままにされていればいいと言いたいのだろうか。そんな単純信仰で私達は遣り過ごそうとしているのだろうか。少なくとも何の反撃にもでない、あるいは何の戦略もない教会指導部であることは明白になった。あれほどに日本を救い世界を救うと大言し、その為の献金摂理だとして教会食口を翻弄しながら、しかし反対する者達への何の戦略もなかったという御粗末さは笑うに笑えない。一世は二世に対してそんな私達がやってきたことへの総括も反省もない。もし二世が立つとするなら先ず一世への憤りから立ち上がるべきだ。一世のお花畑思考と幼子のままの成長しない信仰を痛烈に批判してこそ次につながる道がある。寝ぼけたままで覚醒しない一世食口は、未だに無責任な楽観的気分を肯定的姿勢だと信じて捉えてルームランナーの上を走っている。

2024年8月24日土曜日

今日の想い 1319

 拉致監禁されて離れていった食口達。抜け出すまでの過酷な闘いは彼等の証しを通してその状況を把握できるのだが、証しとして届くのは当然試練を乗り越えて本人の信仰を全うした証しであって、それは拉致監禁されたほんの一部の食口だと私は思っている。そこで説得され霊感弁連のような反対派にそそのかされてメディアに利用される者もいることはわかったが、しかし彼等とも異なる、どっちつかずで流されたまま遠のいた食口達も多かったのではないだろうか。誘われるままに入教し、そして誘われるままに離れていった。私はその部類の人間だからよくわかる。確かに人生の問題に悩んではいたけれども、誘われたから飛び込んだわけで、もしもまだ若いし早いですよと言われれば別の道を辿っただろう。正直なことを言うと、拉致監禁の話を小耳にはさみながら私にもその機会がこないだろうかと願っていた自分を否定できない。それほどにノルマで追われる闘いの日々は厳しかったし逃れたかった。信仰を捨てるとかどうとかの前に、一端実績追及から自由になって自分の内面を整理する機会が欲しかった。ひょっとしたらその機会が持てるかも知れないと思っていた。幸か不幸かその機会はこなかったが、そんな食口も結構多かったのではないだろうか。私の道が開けたのは明らかに米国人事からであって、あのまま日本に居続ければ精神ストレスで廃人になっていたかもしれない。霊感弁連のいう奴隷的人生観ではないけれども奴隷的信仰の中で呻吟させたのも教会だが、主体的人生観を学び能動的信仰の中で光を求めることができたのも教会だ。正直なところ、日本に居ながらにして主体的能動的な自分をどう立てるかは見えてこない。教会以前の問題として未だに日本社会全般がそういう人間性を受け入れずに否定したままでいるからだ。教会に所属する食口であれば今回の件で献金にしろ伝道にしろ一端枷が外された訳で、そうなると教会改革というより人間性の改革へのベクトルは取りやすいし、今が絶好の機会だと私は思う。ノルマで疲労困憊していた食口にしてみれば教会は打たれているけれども個人的には胸を撫でおろしている。しかしそれで安堵するのではなく、今度は主体的自我を取り戻し、その上で主体的能動的に教会改革に関わり臨んで欲しい。反対派弁護士がいう奴隷的犠牲的人生観を打破して欲しい。

2024年8月22日木曜日

今日の想い 1318

私達は洗脳されているらしい。洗脳を解くためには信者一人一人拉致監禁もやむを得ず、というのが彼等の本音だろう。さて私達は本当に洗脳されているのだろうか。彼等によれば洗脳されている者が自問自答すること自体不可能らしく、よって信者を洗脳しているトップを潰す以外ないということで解散になるという訳だ。洗脳されている証拠として生活までも犠牲にする高額献金であり、それは奉仕的奴隷的人間観を植え付けられているからであり、本来の人間観から逸脱するその人間観は洗脳によるということ。どうだろう。ここまで連ねてきて納得するだろうか。食口は納得しない。しかし普通の一般的日本人は十分納得する。食口が納得しないのは献身生活や献金活動はそれによって得る内的何某かの達成感があるからであって(それを説明しても理解不可能ではあるが)、洗脳によって騙されているのではないからだ。しかし日本以外の信者をみるとき、日本食口のような熱心さというか極端なというか、そんな活動はついていけないのであって、清平摂理もそうだが自分に似合う距離をとることは当然であり、それを他の食口から不信仰だ何だと非難されることもないしつまはじきにする空気もない。日本食口というより日本社会そのものが異なった思考や新しい信念を受け入れないし、一般的人間観とはこういうものだという民族洗脳に日本人全般こそが罹っていて、そこからはみ出すと村八分にされる。そう、教会は日本社会から村八分を喰らったということ。私自身洗脳されたというのは受け入れがたいが、上から来た願いを受け入れるのが信仰だという決め付けは確かにあったし、海外に出てみて初めて日本の在り様が政治にしろ社会にしろ理解しがたいものだと目が覚めた。洗脳という言葉を使うから感情が受け付けないけれども、実際問題私達は独善的であったし極端な信仰の在り様だった。先天に於いてはまたそれを要求されてもいた。しかしどんなに私達を村八分にしていじめても、日本社会そのものが目覚めて主体的意識を勝ち取れるわけでもない。ますます内向きになり、周辺に大きな敵を四方に見ながらそれでも外に向いては一向に目を向けないし、ひょっとしたらミサイルをぶちこまれてもそれも教会が悪いからだと言い放つだろう。暗殺事件でその解明に目を向けるでもなく、加害者の三次的四次的な関わりしかない、そんな教会を反社だと血祭りにあげながら日本中が騒いでいる、、日本は本当に狂っている。

2024年8月20日火曜日

今日の想い 1317

食口に会って私の歩んできた概要を説明すれば、アメリカで頑張ってこられたんですねとしか言われない。その言葉に幾分の羨望と敬意はありながらも、叱責どころか一言の苦言を呈されることもない。日本の主要摂理は献金路程であったし日本からの献金なくして韓国もアメリカも世界摂理も回ることはなかった。本来なら日本の食口はそれこそ骨身を削ってでも支えてきて結果生活苦に埋もれる者も多いのに、海外に出てどういう結果を出したのかただ生活を援助しただけなのかと御叱りを受けて当然だし、疲労しきった日本を今度は逆に援助してもおかしくないでしょうと迫って当然だろう。しかし今の今まで誰に会ってもそんな言葉をかけられたことはない。アボジの地上におられる間はアボジの言葉が摂理であり絶対だった。それは日本もアメリカも韓国もそうだった。願われて捧げたものに対して一言もなかったし、摂理的事業に投入する側も何の意見も物申さず言われるままに注ぎ込んだ。願われたからやっただけでその結果に対して責任はない。それは出す側も使う側も同じ認識でどちらももう一方に対して言葉も感情もない。アボジに責められて初めて立場を認識するのだが、そのアボジは今は地上におられない。よって過去は封印されたかの如く何も触れずそのまま摂理を進めようとするけれどもそんな単純は話ではないだろう。個の発展も教会の発展もそして摂理の進展も総括するという段階を踏まない限り次には進めない。レストラン摂理で何件つくるようにと言われたその言葉だけを切り取って突き進もうとするけれども、結果が全く伴わずそれでもその言葉だけは後生大事にして死んでいく、という同じ状況が摂理的部署それぞれに見受けられる。総括するということはアボジの地上不在を受け入れることであり、アボジ先導型摂理の先天から良心を通して天の摂理を受け取るという後天へのシフトチェンジだ。言葉もなく責任感情もなしでどう反対する社会的権威に立ち向かうことができるだろうか。

2024年8月19日月曜日

今日の想い 1316

 お盆を過ぎれば幾分涼しくなるだろうと思っていたが、しばらく猛暑は続くようで、昔の夏のことを思えば流石にここ数年は異常気象だという認識は間違いではないだろう。暑いから腰が重かったが、妹婿がわざわざ声をかけてくれて、田舎の家や墓まわりの草刈りを手伝ってくれるというので、言葉に甘えて妹夫婦と出かけて一仕事してきた。今年初めに老親を近くに移してからは何もしてないので、墓に向かう山肌の小道は等身大の草で埋め尽くされていた。いくら草刈り機があるといっても、この大草をひとりで遣りこなすとなると半日では終わらない。手伝ってもらって良かったと思った。枯れた杉の葉で覆われた墓回りも熊手できれいに掻いて、藪蚊が飛び回る中をフマキラーを吹きつけながら線香を手向け、花を挿して、皆で手を合わせた。この場所に来れば昔の様々な思い出の数々が、我先と押しのけるようにして次々と眼前に描写される。遠い昔の時間の狭間に捨て去り消え失せたはずの、あの取るに足らない体験が、この場に立つことで克明に描写される。となると記憶は私の脳裏にあるのではなく、この地この場所に釘付けされていて、それが私の体という媒体を通して呼び起こされるということだろう。もし私が霊的感性を更に鋭くしていたなら、私の思い出に留まらず遥か昔のこの地の出来事さえも呼び起こされるだろう。おそらく多くの人々は歌の如く、死者はそこにはいないと信じて疑わないだろうが、皆の祈りが死者をそこに呼び寄せるだろうし、祈る人々の念もそこに釘付けされる。実はと言うとこの田舎があまりにも不便なので、墓も今住んでいる近くに移動させようと場所と入れ物だけは数年前に用意していた。それは両親ふたりなくなってからとは思ったのだが、果たしてそれでいいものかどうか、再考する必要があることを学習した。

2024年8月14日水曜日

今日の想い 1315

 宮崎県日向灘を震源とする地震が起こった。気象庁は南海トラフ地震への注意を喚起して、宮崎近辺だけのことだという他人事を日本の広範囲に及ぶ国民の事であり自分の事として意識させた。日本列島は北東から南西にうねる竜の背中に乗っかっている。日本はこの竜が激しく動けば列島もろとも太平洋にずりおちてしまうという、大陸上の国とは全く異なる状況にある。異なる状況どころか日本人もろとも海の藻屑と消えかねない運命にあるのが日本だ。それを思えば日韓トンネルは地獄からの避難トンネルになり得ただろうに、政府は教会を潰すと共に日本人の生き残りの道筋も潰した格好になった。勿論資金の理由からなのか何なのか、早々に頓挫したままであって特に今回の件で潰されたという訳ではないのかもしれないが、希望は断たれた。南海トラフ地震は巨大地震と言われるけれども、震度やその範囲、また津波の高さや範囲による被害のみならず、インフラという生命線が寸断されることによる被害も含めて予想できない。おそらく全国民がその時になってみないとわからないというのが実情だろう。東北の比ではないことぐらいはわかるが、だからといって避難する場所や道筋、取り敢えずの備蓄、それくらいの準備の他はどうしようもなく、何があっても受け止めるしかないという心の準備しかないだろう。「心の準備」をどうしようもないという意味で使うことが多いけれども、自分の心に聞いて行動するのが最善だろう。心に聞いて心の赴くままに行動するという、これもみ言葉に触れない人々に対する天が願う良心啓発のひとつだと思う。日本人は災害の苦難を経ることで霊的位相の高みへと魂の階段を上ってきたし、南海トラフ巨大地震が起こるとすればそれもまた日本人に対する内外の摂理だろう。

2024年8月8日木曜日

今日の想い 1314

 先ず教会用語を内輪でも使わず、この社会で使われている言葉に直して使う必要がある。私が嫌う言葉の一つとして原理非原理がある。原理的だとか非原理的というような使い方をするこの言葉は、食口の間違った選民意識を誘発させる。教会は原理的でありこの世は非原理的だと当然のように判断するけれども、自分の中に堕落的なものが息衝いているように、教会の中にも非原理的なものがありこの世の中に原理的なものもある。さらに言えば原理非原理の基準は私達の中にはないだろうしどこで線を引くのか分かっていない。こういった教会用語を使って食口村をつくるものだから、”非原理的”この世から隔離し独善性は強くなる。この社会を堕落世界だ何だと言いながら、社会の中に生きて社会から様々な社会保障を当然のように受け享受している。年金も積み立てておらず受け取れなかったり額が少なかったりするが、中には生活できないために生活保護を受ける者もいて、そんな立場でそれでもこの世を堕落社会だと糾弾することができるだろうか。献金を優先して税を負担してこなかったことを誇ることはできない。祝福家庭に霊的位相の違いはあるとしても、それは社会に対して誇るものではなく、口に出して誇る時点で位相は転げ落ちる。高みに対して誇りには思ってもこの世にたいして誇るべきものではない。この世で謙虚であることが逆説的に霊的に誇ることになるという、この意味がわからなければ霊的理解に欠けている。み言葉を訓読しながらみ言葉の流れがわかってくると霊界も正しく認識できるし、霊的感性もみ言葉の深さ、すなわち心情の深さを相続することで育てることができる。原理用語を使いながらみ言葉を理解したつもりになっても、それはみ言葉の理解を逆に妨げる。

今日の想い 1313

 株が暴落した、あくる日には暴騰したと一喜一憂の空気が日本に蔓延している。景気が良くなって株が上がっていくのはわかるとしても、株が上がったから景気がいい、逆に下がったから景気が悪いと言うのは本末転倒だ。株を取得すること、すなわちその会社の部分的オーナー権を得てどうしたいのかの動機を問わなければならないのに、上がるとみて買い下がるとみて売るのは只の利幅稼ぎの為にオーナー権を腰掛けで使っているに過ぎない。株を短期で売買できる時点で利幅稼ぎの取得者を寄せ集めていて、その会社の発展には逆効果をもたらしている。自社株買いがいつから許されるようになったか知らないが、それをすれば当然株価は上がる訳で、発展成長して株価を上げるのではなくより買いを増やす目的で裏技で上げ、上がった数値をみて腰掛け買いがさらに増やすと言う株ゲームでしかない。ようするに今の市場は金融ギャンブルであって、それもレバレッジで掛け金を何倍にも増やしてゲームできるという点では通常のギャンブルを超えている。さらに悪質なのは金融だけに経済全般に深く影響していることだ。日銀会合で決定したコンマ25%金利上げで円キャリートレード(低い金利通貨を借りて金利の高い国債や上げ率の大きい債券を買うこと)の巻き戻しが一気に起こっている。暴落したもののあくる日には暴騰したが、株価は差し引き大割れとなり、しかしまだ半分も巻き戻してはいないのを換算すると秋口からの更なる下げが予想さる。新聞の見出しはブラックマンデーを超えるという文字が躍っているが、リーマンショック以降の通貨増刷(日米欧で15兆ドル)の背景からは当然どころか、こんな下げ幅で取り敢えずは済んだというところだろう。金融システムを始めとする資本主義経済のシステム自体が疲労しており、あちこちの歪を抑えきれずにマグニチュードを最大にさせて大揺れする。確かなことはこれはほんの始まりに過ぎないということだ。

2024年8月6日火曜日

今日の想い 1312

 未だに眠りから覚めず、何の根拠もないのに今の状況を楽観視している食口がいる。しかも大勢いる。笑みさへ浮かべながら「打たれたからこれからは神が打つ場面に移る」と壇上から言われると、大きく頷きながら大きく拍手している。打たれた?、、打たれた自覚が本当に食口達にあるのだろうか。既に何度かこのやるせない感情を吐露すべく記したが、溜息は大きくなる一方だ。繰り返しになるけれども食口に責任感情という痛みはない。失敗したこれまでの摂理に対して何の負債も感じてはいない。勿論口にはするけれども胸の内にそれは見えない。祈祷条件を立て地を叩いて涙の祈りをするけれども、時間が来て顔を上げた途端に本人の祈りではなかったかのように普通に生活に入る、、あの感覚だ。自分の嘘を嘘と見抜けない、虚実同居する矛盾を、原理を通して堕落人間の矛盾性を嫌というほど学んだ立場で自己の矛盾性を見抜けない、そういう自分であることを食口はどう思っているのだろうか。シンポジウムで教会側に立って語る言葉は私達に甘いけれども、そんな言葉をかけられて満足して帰路につくのは大間違いだ。できるならヨイショされるのではなく怒気を含めて叱咤してもらいたい。そうでもして叩き起こさなければ、眠りから覚めない私達だ。人は痛みがなければ他人事だ。他人事であればそこに責任感は伴わない。未だに私達の中には危機感の代わりに無責任な楽観的気分と言葉が充満している。子供は天真爛漫でいたいけな様はかわいらしい。しかし大人が無邪気な者ばかりでどうして摂理が進むだろうか。騙され食い物にされて終わりだ。せめてもの想いは、これを通して痛みを覚え、摂理を自分のこととして向き合える機会にしてほしい。

2024年8月1日木曜日

今日の想い 1311

教会は民主主義ではないから会議するという習慣はなく、集合すれば上意下達で終わって食口は全て受け止めて終わる。しかし摂理の要求としてビジネス活動に入るとなると皆のいろんな意見を集約しながら目標なり願いを達成することになる。当然会議も必要になるのだが、食口達にその習慣がないためか度胸すらないのか、立てられた中心者からの方策に頷き聞くだけで意見も出ず、ましてや丁々発止の議論の遣り取りもなく流れてしまう。私のいた部署はほぼ30年間、会議と呼ばれる集まり自体は多かったものの、会議の体を為しておらず、売り上げも減り店も減るばかりで大した発展もなく時間だけが流れていった。宗教は阿片だと言う者もいたが、こんな発展も成長もなく時間だけを費やしているのなら、その言葉は意外と的を射ているのかもしれない。信仰生活を歩んでいる途中のどこかで闘いを諦めてしまい、そして公私の願いも欲も諦めてしまい、戴いた祝福だけを護りながらこの世を去っていく。でも本当の意味で祝福を花咲かせ実を実らす為には、願いも欲も抱えて生きながら、自分の弱さと闘いながら、精神位相の断崖を登っていかなければならない。あれほどにみ言葉を受け訓読の日々であるなら、み言葉の心情を相続して語る言葉に魂を感じるはずだがそれがない。それどころか逆に言葉が貧しく弱弱しさしか感じ取れない。み言葉を教条的にしか受け取れない腐った輩は無視して、み言葉の心情、み言葉の魂に相対し、自分の中に根付かせ成長させなければ信仰生活している意味はないだろう。真の父母の願いを成就する為に生きてこの道を歩んでいるのであって、教条的に形だけ父母に従っている風を装ったり、嘘臭い御母様賛同の言葉を連ねるだけでは真の父母の子女とはなれない。教会のお花畑の在り様にさえ剣を投げ込めずに、どうしてこの世に対峙して摂理的方向に導くことができるだろうか。