日本が負けるもここまで悲惨な敗戦となった理由は、本土決戦に至るもやむなし、日本人総決死に向かわせた大本営判断の硬直化がもたらしたものだと思う。日本教会が解散にまで至った理由も、日本人ならではの硬直したアベルカインという日本全体の信仰観がもたらした結果と思っている。日本の教会の責任者にも食口にも、日本は摂理案件に犠牲となって当然、日本が潰れるまで搾り取れるだけ搾り取り天に捧げて当然という空気があった。今となっては不思議にも思えるが、中心者の言葉や指示にどこまでもいいなりになる犠牲的熱狂感が教会食口全体を覆っていた。しかし、熱狂感にのぼせている期間はそうそう長くは続かない。既に事件が起こる以前から、このまま放出し続けてどうなるのだろうという冷めた思いは誰もが持っていた。遠藤周作は沈黙の中でフェレイラ神父に、この国は沼地でキリスト教は根をおろさぬと言わせている。フェレイラが伝道した彼等が祈っていたのは、キリスト教の神ではなく日本流に屈折された神だった。はたして私達日本食口はどうだろうか。アボジがいう神と同じ神だろうか。キリスト教が祈る同じ神だろうか。仏の慈悲とキリスト教の神の慈悲の違いはというと、己の中には弱さしかないから仏にすがるしかないというのが前者で、己の強さを神への信仰で育んで自らが自らを救うのが後者だ。なかなか日本に居るとこの違いが見えてこないし、日本人の神観(ほとけ観?)は世界の神観と当然同じだと思っている。すがり信仰である清平摂理に着いてこれない西洋の食口が多いのも神観や信仰観が異なるところからそうなっている。日本の敗戦が悲惨になったのも、日本の教会が解散されたのも、自分は中心ではなく、自分は何もわかっていないし弱い存在だから周囲に合わせ、大本営やアベルの声に従うのみ、その結果と見ることもできる。そういう日本人の自我喪失(自分の中に霊(良心、良神)が立っていない)が本質の問題としてあるから同調圧力の村社会になってしまう。日本社会がそうであり、日本の教会もそうだ。
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