2008年8月2日土曜日

宗教について考える

神の存在はこの被造世界から因果論的に論証することは出来る。しかしその認識は機械的なものであって感情や意志という魂に働きかけるものは見えてこない。復帰歴史の流れに於いて、それぞれの神観がそれぞれの時代に応じて与えられている。人間の魂の在り様の段階に応じてそのように摂理されてきた。救世主が肉体を纏った形でこの地上に降り立った時、人類は辛うじて彼を受け入れることが出来る魂の在り様まで到達できた。救世主を迎える為に、降臨前の数百年、神は多くの精神指導者を送られた。彼らをして最終的な魂の耕しが人類には必要だった。そして迎えた救世主ではあったが結果は誰もが知っている。あのように悲惨極まりない最期を認めながら、十字架が神の計画であったと言える感覚は理解を超える。しかしながら十字架故のクリスチャンであることも否定できない。イエス様の愛の言葉が十字架によって裏付けられている。主の十字架という尊い血の犠牲が彼らの信仰の根底にある。そのイメージに支えられる形で愛のみ言を魂の中に受け付ける。ある意味で条件付の信仰なのだ。だからと言ってその信仰が偽りだというつもりは毛頭ない。ただ神様がその信仰に触れるとき、胸を掻き毟られるほどの悲しみが伴っている。イエスキリストは確かに存在している。クリスチャンの魂の中に生き続けている。イエス様が私の中に居られると断言できる意志の力を魂の中に感じ取るのでなければ、イエス様はその人間の魂の傍を通り過ぎていくだけだ。救い主イエスキリストとして魂が受け入れる為には十字架イメージの衝動を能動的な仕方で自分の中に喚起しなければならない。人間であることの尊厳は主イエスキリストという高次元の真理、即ち愛を認識することにある。しかしそこに至る為に強制されるのでなく、あくまで自由意志として獲得される。堕落したのも自由意志であり本然の愛への道も又自由意志である。クリスチャンでなくとも全ての信仰は自由意志として本人が獲得したものだ。それぞれの宗教によって次元は違うし、またクリスチャンといってもピンからキリまでその信仰はあるだろう。だから宗教の違いがそのまま階層の違いとも一概には言えないが、愛という光を直接的に受ける、反射したものを受ける、或いはフィルターを通して受けるという違いはある。我々の御父母様に対する魂の在り様もそのようであって、自由意志をもって近づこうとするのでなければどれ程向こうから近づこうとされても我々の横を素通りされるしかない。この世界に奇跡はあっても魂の奇跡は有り得ない。それが他の被造物と違う、人間に与えられた自由性というものだ。一生懸命と言う言葉を御父様は好まれる。一生懸命近づこうとするその自由意志をもってしか真の父母の在り様には近づけない。慕うと言う情的衝動によって行動することを侍ると言う。侍って侍って侍りぬいて、真の父母に於いて生きるのであり真の父母に於いて死ぬ。

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