2008年8月26日火曜日

今日の想い 7

食口の多くは、自分のあるべき姿、創造本然の世界、霊界様相、等々に対して自分が想像するものは、本来あるべき様相とは違ったものだと言うことはおぼろげに解っていると思う。しかし人は自分が思念できる範囲以上の内容は理解できない。目指すところの言葉は与えられているけれども、その言葉の意味を探りながら探りながら歩む、即ち目の見えない者が先導者に手を引かれながら歩むのと同じだ。だから我々にはみ言葉が必要になる。み言葉が我々の先導をする火の柱となる。しかし信仰生活が長くなるにしたがって今の自分の在り様以上のものを見出せない。本然の世界がどれほどすばらしいだろうという未知への魅力を見出せない。内的霊的なものより外的肉的なものへの執着の方が大きくなる。だから元の鞘に収まるように、自分の魂の在り様、即ち自分が思念できる範囲に落ち着いてそれ以上向上しない。祝福を受けたことで満足している。より愛の大きい存在になりたい御父母様に近づきたいという能動的想いがない。はなから地獄に行って苦しみたくないぐらいの想いで接しているから御父母様との本当の関係性は築けない。我々はよく原理非原理という言い方をする。或いは教会から距離を置いている兄弟を離れたといったりする。また食口として認めるかどうかの自分なりの或いは全体が認識する型がある。一線を踏み外したり問題が認められると、その型から外れたとして兄弟の括りから除外される。そういった判断と真の愛、為に生きる愛、犠牲の愛とは相容れない。愛の群れでありながらその群れに愛はない。天国人としての多くの約束事がありそれを守ることは至極当然であるとしても、約束事が約束事に終り、天国は愛の世界ではなく約束事の世界なのだろうと本音で思っているところに既に、御父母様とは距離を置いている。

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