2008年8月29日金曜日
シックビジネス
主人意識と信仰観とは直接関係は無い。会社のオーナーが御父様であるとしてオーナーリターンこそ為に生きることだと言われても説得力に欠ける。御父様は利益が欲しい訳ではない。摂理を進めるために必要ではあるけれど金さえあればどうにでもなるというものではない。差し出したものを喜ばれるのではなくそれに費やした精誠を受け取られる。だから例え主人意識を持ってビジネスを発展させ大きな利益を生み出したとしても、そこに御父様に対する精誠が見られなかったら手を付けられることは無い。主人意識が自分を中心としたものから出てきたのか御父様に侍る想いから出てきたものか、それによって内的霊的に天地の違いが生じる。一方はサタンが取り今ひとつは神様が取って下さる。一方は死んだ利益や金であり今ひとつは生きた霊的価値の或る金の形をした精誠条件である。その違いをはっきり教育できないところに本部の責任はある。現場に於いて営業しながら扱う金がどういう種類のものか、どう扱えば生きた金に生まれ変わるのか、それらを知る霊的感性を教育すべきだ。先月、ロシアから来ていると言うSTFの若い姉妹が店に訪れた。はっきりと教会の名前を出して万物復帰をしていた。ここがどこかも知らず一生懸命説明していた。教会を知らない従業員は品物が高いとか口にしながら背を向けるのは理解できる。しかし理解できないのは何人か働いている兄弟だ。下を向いたまま関わろうとしない。自分も教会員であるから敢えて彼女を通して献金する必要はないと思っているのだろうか。ただ単に自分はそんな持ち合わせは無いから笑って誤魔化したのか。その光景を見て情けなかった。無いなら無いで励ましの言葉をかけてやるなり、買えないけれどとことわって一ドルでも二ドルでも足しにして欲しいと渡すなり、何かしてあげようと揺さぶるものは心の中に無いのだろうか。ドアツードアをやった経験があるならそれがどれだけ大変なことか知っている。そこに精誠の強い想いが無かったら出来ることではない。兄弟の多くは信仰観が形式化してしまっているように思う。その在り様に瑞々しいもの熱いものを感じない。形式化惰性化した砂を味わうような生活の中に御父母様と共にある神様と共にあるという実感はないと思う。それは神様も可愛そうだが本人も可愛そうだ。そこに気付きが無いなら物は物でしかないし、金も物でしかない。そして自分も物でしかない。
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