2008年8月28日木曜日
食口ビジネス
一つの事業を任され運営していく上で、その事業なり会社は任されたものが主人意識を持たない限り続きはしないし発展することは無い。主人意識、即ち自分の事業であり会社だという思いはそうであるけれど、自分、という意識は兄弟それぞれに於いて理解度や認識が異なる。責任者である自分という存在を個とする意識が強いか、或いは公としての自分が勝るかそのサジ加減によるから、全体を組織立てる上で問題が生じる。本部はそれぞれの責任者にこうあるべきだとの思いがあるかも知れないが、それぞれの自分の捕らえ方はそれぞれの信仰観に拠る為、一様に同レベルに持っていくことは出来ない。まして今まで本部主管でなく、それぞれの現場で問題解決しろと丸投げした時点でそれぞれの凧が糸を切り離すのは時間の問題と言える。だから今回のような悲劇は起こる。本人は当然自分に全面的非があることを認めるべきだが、本部や周りの者は当の本人にだけ非の責任を背負わせることは出来ない。本部の責任であり我々の責任でもある。本部と我々はどういう責任を負うかという問題をクリアしない限り、責任者がそれなりの場当たり的なコメントで濁しておけば組織の中も濁ったままである。私見として言わせて貰えば、食口組織全体に言える事だけれど血が繋がるほどの愛の関係が中心との間も横との関係に於いても薄い。はっきり言って機械的であり有機的情が見出されない乾燥組織である。共産主義体制下に生活したことはないがそれとさして違わないように思う。会議に出ても本部に詣でても生きた人間の息遣いが感じられない。それは責任者を含め誰もが感じていることだと思うが今までの成り行きでその体質は変わりようが無いものなのだろうか。そういった環境圏の中で外的数字だけが判断材料となり内的霊的なものは当人任せとなると行き着く先はそうならざるを得ない。
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