2008年8月31日日曜日

感謝意識

人間は自我の存在でありながら、自我から発信するものに沿って生きようとする意志を見出さぬまま、自分の生を送る人のほうが圧倒的に多い。自我と言う人間一固体の根源を確認できず、自我から発信するもの意外の要求を自我の要求と勘違いしている。どんな些細なことであっても行動要求の一つ一つが他の何かから強制的に思わされている。自我のままになる自由な魂、自由な肉体ではなく、他の何かに躍らされている。魂も肉体も人間の根源的存在である自我との結びつきが薄い。瞑想し祈ることで肉体から魂へ、魂から自我へと意識の糸は繋がれ本来あるべき関係を太くしていくのだが、他の何かに躍らせれている自分をこれこそ自分の本質だと思わされているから瞑想しても瞑想できないし、祈っても祈れない。休むことの無い自己弁護の魂の働きだけが堕落した人間存在の基本にある。言葉にならない魂の活動は始終言い訳で溢れかえっている。そこに自分の本質である自我は隅に追いやられ、本来自我の活動舞台である魂も肉体も偽りの自分に占領されている。神様に直結している自我はその活動を阻まれ自分の中で仮死状態にある。御父母様が開闢時代を迎えたと宣言されたことが地上天上のあらゆる人間に取ってどれ程奇跡にも近い祝福であるか。長い歴史を経ながらこれまで幾人かの聖人たちが自我の覚醒を果たし、彼らが人間本来の自我に備わる神性の一端を現し、それによって人類は聖人たちが現した神性の分霊を戴くという恵みに与っている。聖人たちが現れる前と後では人類の魂の在り様も身体の在り様も違う。特にイエスキリストが人間として肉体を持って地上に来られたことで人類の自我は大きな覚醒を得ることが出来、今ある魂や肉体の在り様が人間本来の在り様と違うことを認識することができる。即ち罪の自覚を覚える。地上に於ける一人の勝利的功績でその方の高みまで人類は霊性を高めることが出来る。更に二千年を経て真の父母を戴くことで自我に備わる霊性は魂や肉体を凌駕できる高みまで届けられ、神様が本来願われた創造本然の在り様に人類も宇宙も再生される。普通人としての為すべき取っ掛かりは先ず自己弁護に翻弄される魂の在り様に気付くことだ。そしてそのような魂の中に、感謝の意識を少しずつ少しずつ植え込んでいくことだ。感謝の意識が大きくなっていくことで偽りの自分である自己弁護に対等することが出来る。出来ないことに悩み言い訳をする自分の一面は、たとえ無くせ無いまでもその意識に振り回されず、出来ること、より感謝することに意識を置き重心を移す。出来ないこと自己弁護、そしてどっぷり浸かっている環境に執着すれば今まで支配され続けてきた(サタンを根源とする)偽りの自分の思う壺だ。感謝の意識の中にこそ神様が具体的に働くことができる。僅かの意識転換が大きな意味合いを為すのが後天開闢時代だ。今は天国も地獄も手に届くところにある。

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