2009年6月21日日曜日
今日の想い 85
人それぞれ背負うものは違うけれど、積載オーバーと思いがちだか自分の器に収まる重荷だけを背負って歩んでいる。自分には抱えきれない程のものを背負わされているようで、隣の人の身軽さばかりが気になるけれど、受けた重荷の大きいのは器の大きさが認められたからであって、神様が私を頼りにしてくれていることを嬉しく思いこそすれ、不満や泣き言を言うのは本当はお門違いだろう。人生路程が幸福ばかりで満ちていて、愛や幸福の減少感を覚えないのであれば、私は魂を発達させる機会を見出すことは無いだろう。自我という自分をこの世に放り込み、喜怒哀楽の魂的経験をスポンジのように吸収しながら、次元を高める為の学びを得ている。学びは感情のUPDOWNを繰り返しながら、幸せと感じる時と時の狭間で学ぶのであって、幸せが不断無く続くのであれば、絶え間ない高みへの昇華を持ち続ける人間特有の存在としての意味は無い。降れば降るほどに七転八倒の苦しみを味わい、人間を辞めたい程に落ち込むけれど、絶対信仰絶対服従を供えるその場でこそ魂は成長し、新たな次元に生き、新たな器を用意する。今日という一日を与えられ、魂の冒険を出発する。朝に訓読を持って魂の闘いの準備をし、たとえどのような多くの困難、苦しみが襲おうとも私は正面から立ち向かう。弱気になれば魂は萎縮する。強く雄雄しくあり恐れたりはしない。そう決意して今日一日の冒険に出ればいい。一日の魂の旅を終えて床に就くとき、戦利品も奪われた事柄も報告しながら、善も悪も神の手に委ねて休めればいい。先の事を思い遣ってもどうなるわけでもない。今日一日は今日一日の事柄で足る。どんな雨でも必ず止んで日の射す時を迎えるけれど、新たな雨が新たな日の光を迎えるために雨脚を運ぶ。
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