2009年6月13日土曜日
日本的食口
日本を離れて学んだ事の一つに日本人が装う冷たさがある。それは外的結果至上主義に起因してもいる。自慢できる外的結果を残す事が何よりも重要な事柄で、その為には手段を選ばない。切り捨てようが恨みを買おうが結果を残す為には全てが善しとされる風潮は未だに残っている。優しさや労わりや、愛に関する事ですらそれらは結果を残す為の謳い文句であり手段であり、優しさを装った冷たさであり、労わりを装った脅しであり、愛を装った裏切りなのだ。だから表面上は相手を受け入れているように見えても、その実バリアを張り巡らし心を許す事など滅多にない。他がどう思い、他を計りにかけることばかりを気にしながら蠢いている。体裁さえ整えば本質的なことであろうと何だろうとどうだっていいのだ。高校生で入教して卒業と同時に献身生活に入ったから日本社会がどうであるかは分からないが、教会内の社会ですら冷たいものを感じた。外は推して知るべしだろう。日本は恥の文化と言われるように、見せる結果を残せないことが痛恨の極みであり、失敗したハンコを押され他人の視線を浴びる自分という存在が許せない。切腹自害という、許せない自分を成敗することは至極当然の事であり、それでも収まりがつかないから連れ合いや家族まで巻き込む。それを美しいと思えること自体が異常なのだが、犠牲になることと恥かしく許せない自分を死に追いやることとは同じ行為のようで真逆の行いと言える。自害は執着の極みとしか言えないだろう。アメリカで歩む日本の食口にも多かれ少なかれ、そういった冷たい要素を持ち合わせている。御父様が言う為に生きるであるとか愛するとかが方便になっている場合が多い。アメリカではウェスタンの食口は勿論、韓国の食口に接する機会も多い。自ずと内面の違いは見えてくる。韓国食口ははっきりした物言いで責める場合もあるが、流石に情の国韓国だけあって付き合いは深く、内面に暖かいものや熱いものが伝わってくる。日本はその目的観念故に用いられている節もあるが、使命感ばかりが先走り、誰の為の使命感なのか何の為の使命感なのかも忘れてしまい走り続ける事がある。隣にいる兄弟が実に遠くに感じたり静かな冷酷を垣間見たり、その目にやいばを忍ばせていたりする。御父母様に対して真の父母として接するにも、触れたいようで触れたくないような、心を完全に開くでもなく、主君に仕える家臣の域を超えることも無く、真の愛を受けるにどこか決りの悪さぎこちなさを覚え、そんな日本人意識にどっぷり浸かった状態を抜け出し開放されない限り、四六時中御父母様と共に在りたい、兄弟姉妹と寝起きを共にしたいと心底思える天国人にはなれない。その意味では私も解放しきれていない一人のイルボンシックなのだ。
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