2009年9月1日火曜日

マインドコントロール

洗脳とマインドコントロールの違いが始めてわかった。マスコミや巷で何を言われていようが、そんな事を気にするなら何もできないので敢えて関心を逸らしていた。洗脳と言えば余りにも胡散臭い、教会用語で言えばサタン的な感じがして教会員の心の隙に入ることが出来ず、その為にマインドコントロールと言う柔らかな、如何にも生真面目な教会員が関心をもつ言葉に変えたのだろうかと思っていた。YOUTUBEで頻りに懐メロや好きな歌手の動画は見ていたが、教会に対する内外の情報をここから得ることが出来るとは今の今まで気付かなかった。自分がマインドコントロールに掛かっていたと言う事らしい。ある程度のマスコミの演出もあるだろうが、教会のマインドコントロールに掛かっていたと、脱会した本人が言うのだからそうなのだろう。憑き物が取れたような晴れ晴れしい面持ちでインタビューに答えている自称、元教会員は、教会から距離を置くことで当面は救われたのだろう。何を持って騙されたと思うのか、そう思う以上何かを期待していたからのことだろうし、その動機が何なのかわからないが、その動機がおかしいと言わざるを得ない。かと言って信仰的背景もなく、内的霊的本質への願望もおぼろげで、自分を含めて殆どはみ旨を歩む動機が何なのかは歩みの中でこそ内的に目覚めるだろうし、理解していくものだ。それが自分の感情を満足させるものではないし、ましてや外的な何かを得られるものではないことは明らかで、外的なものを犠牲とし、或る面、内的なものをも犠牲としながら受け取るものがある。その確信とその価値を認めなければ、教会は当人に取って欺瞞の巣窟でしかないだろう。立派な先生の説明によるなら、社会の全てはマインドコントロールとなる。無神論も含めて全ての宗教は勿論、学校も会社も家庭も、自分の人生ですらマインドコントロールを受けていることになる。コントロールを受けていない自分の基準さえ解らないのに判断の仕様がない。確かにこの世から見るなら教会は胡散臭いところに違いない。正直なところ内部に居ても胡散臭いと思えるところは多々ある。恐らくその得体の知れなさに対する受け付けない感情故に、適当な理由をつけて除け者にしたいのだろう。この世的に見栄えもよく、誰もが受け入れるような存在であるならそこに宗教性はない。自殺者が三万人を超し、親子間の殺生すら珍しくも無く、綺麗な町並みと煌びやかなネオンの背後にありとあらゆる悪と醜さを見ながら、この世界に蹲って生き延びることに何の疑問も感じないと言うならそれ以上何も言えない。疑問を覚えればこその教会であり、信仰であり、それ故にこの世に受け入れられない特異性があるのはやむを得ない。三途の川を渡る時に、この世にマインドコントロールを受けていたからと開き直りできるだろうか。

0 件のコメント: