2012年1月16日月曜日

次元キャンバス

信じられるとか信じられないとか、出来るとか出来ないとか、それは或る意味今となってはどうしようもない問いなのかも知れない。今は既に問うべき時期を超えているのかも知れない。信じて当然で、出来て当然で、そこに時間を費やす余裕はなく、そこに踏みとどまったままの人間は置き去りにするしかない。肉体を持って御父様に侍るということは、地上世界という限られた時間と限られた空間に、私が侍った痕跡を刻んでいくことだろう。地上に生を受けた者は全て、生まれた時間と生まれた空間を誕生日、誕生地として刻んでいる。そうしてその他のいろんな記念日や記念の場所があるように、食口である私達は何を持って御父様に侍り、何を持って精誠を尽くしたかを、時間に刻み空間に刻んでいく。私達が残すことは悩み揺れ動く軌跡を描いていくことではなくて、この時この場所でどう侍ったかを刻んでいき軌跡を描いていく。そうあってこそ私の生は父子の因縁で御父様と結び付けられ、Oの中に私というX存在が存在できる。私達はそれぞれに次元キャンバスを与えられている。それは平面のキャンバスでも立体のキャンバスでもなく、時空のキャンパスを与えられているのだが、私が時空を超えて時空を主管できる位置に次元を上げなければ、次元キャンバスに刻み、軌跡を描いていくことはできない。横的な位置から縦的な位置に次元を上げ、しっかりと愛する意志としての筆を持ち、与えられた時空のキャンバスに私を通して働かれる御父様の理想を刻んでいく。絵具は、、、。絵具は私の御父様への想いから流れでる精誠の汗であり涙だ。一休は涙でネズミを描いたけれども、統一食口は精誠の涙で御父様の理想を時空に刻んでいく。